個人情報の超管理社会

 かういふ題名だと、管理社会を批判したり危惧したりする内容を期待されるのでせうが、個人情報の完全管理社会が来ても、特に、問題は無いという話。
 しかも、全然、深みの無い考察が、以下に続きます。


 たとへば、外出したらどこにゐてもカメラで記録されてゐる社会。そんな社会では、或る種の犯罪は激減したり、種類によっては撲滅されるでせう。

 未だに万引きは起きてゐますが、カメラによる記録が巧妙になり、かつ、顔認証で(しかも瞳の照合で)人物の同定ができるやうになれば、(社会的自殺行為以外の)万引きは無くなる。

 学校の教室や校庭などにもカメラがあって、先生や生徒の言動が逐一記録されてゐるとなると、いぢめや、先生によるモラハラやセクハラ、性的虐待などは無くなる。もちろん、学校を出ても至る所にカメラがあるから、路地裏でボコるなんてことも不可能。

 結果だけ見ると、犯罪やいぢめや性的虐待が無くなるのだから、けっこうなことだと言はなければならない。

 心配なのは、「支配者に管理されてしまふ」「その管理を打ち破る手立てが無くなる」といふことでせう。
 これも、情報の完全管理社会が避けられないことを受け入れて、一部の人たちによる支配を防ぐ仕組みを、人工知性(AI)や人工実存(AE)なんかも一枚噛ませて、何重にも安全装置を仕掛けて置くことで防止できます。

 思ひ切り楽観的に考へれば、かうなります。


 一度、この記事を書き終へてから、ちょっとさっき調べたら、実際、↑に書いた方向に進みだしたみたい。

再発防止策として、講師やスタッフが教室内にスマホを持ち込むことを禁じ、授業の様子を保護者がスマホなどでリアルタイムで確認できるシステムを導入するという。
ってなことになったみたいですよ。

 わたしが書きたかったのは、個人情報の完全管理社会の是非ではありません。
 それを引き寄せる・わたしたちの人生観や世界観のことです。
 それが↓の記事でした。

 

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