ポピュリズム

 調べてみると、ポピュリズムには、いろんな訳語があるようだ。

 侮蔑と警戒心を持って、衆愚政治大衆迎合主義と訳されていると思うと、平民主義人民主義民本主義などと訳されてもいるらしい。
 後者の訳語は、既存の体制とそこに巣くうエリート層や特権層から、善良で勤勉な一般庶民に政治を取り戻す運動だという思いが込められているようだ。

 ポピュリズムは民主主義体制に湧いてくる泡のようなものかもしれない。
 現代の世界では、民主主義の国と言われている国家では、議会制民主主義を採用している。
 それは、それらの国家が、国民の「個人の自由」を重んじているからだと思う。自由な社会においては、国民はそれぞれの利権によって大小の集団をつくる自由がある。公益や道徳などに気兼ねせず、個人の誰もが、自分の私利私欲を追求できるということ、それが自由な社会の本質だからだ。

 人間の自由を制限しようとするのは、常に、公益、公的な正義、「みんなのため」と「みんなが正しい信じる正義」である。

 それらの大小の集団の利権を維持したり拡大したりしてくれそうな政党を国民が「組織的に」支援することで、国政政党が生まれ、それら複数の国政政党が議会で討議して、国民全体の利権を調整する。
 これが、日本の民主主義だ。
 その調整に対しては、誰もが不満を持っているが、不満の無い調整は、独裁でしか達成できない。議会制民主主義のもとでは、誰もが、政治に対して、うっすらと不満なのだ。

 このようなうっすらと不満を感じる民主主義のもとでは、自分の利権が特殊過ぎて既存の大小の集団によって担保されない個人は、うっすらと不満どころか、「政治から見捨てられている少数者」ということになる。

 ポピュリズム政党は、教科書的には、このような「政治から見捨てられている少数者」を拾い上げて勢力を拡大していく、ということになっている。
 だが、「政治から見捨てられた少数者」がほんとうに少数者なら、その少数者が政治的な勢力となって社会的に可視化された存在となることは不可能だ。
 政治は数を力とする非暴力の社会活動だからだ。暴力を使えば、たった一人でも、世界を変えられるが、政治はあくまで非暴力であるから、少数であることは、政治的には無力である。

 だから、ポピュリズム政党が国政政党として誰の目にも見える姿を顕すとしたら、それは「政治から見捨てられた少数者」に加えて、既存の利権集団では自分の利権を担保できない人たちが「政治的に可視的になるくらいの多数派」となったと考えるべきだろう。

 今まで自民党の支持母体は農業従事者の群れだったらしいが、自民党の関心が国外に向いてからは、日本国内の農業従事者の利権の維持と拡大がかえりみられないようになっているようだ。
 日本の農業が、外国資本やグローバリズムによって蝕まれているという見方もできるだろう。
 
 もう一つ、ポピュリズム政党が台頭する原動力となるのは、イスラム教徒などの移民だろうと思う。たとえば、イスラムとは、郷に入っては郷に従うではなく、よその郷をイスラム化することで世界的な勢力となって来た教団だ。そのような教団が日本国内で勢力を拡大すれば、日本人の既存の利権が損なわれていくに違いない。

 多文化共生という美名のもとでは、移民に対する不満や反対は、口にしたとたん、レイシズムやヘイトスピーチということになって、左右ともに既存の社会的価値観のもとで商売をするインテリ芸人には口にしにくいところがある。
 だが、或る一定の民衆の利権を深刻に損ない始めれば、そういう民衆はレイシズムやヘイトスピーチなどという言葉では抑えきれなくなる。なにしろ、毎日の生活がみるみるうちに困窮してくるのは民衆、移民文化の被害を直接受けるのは民衆なのだから。


 最初に触れたように、ポピュリズムについては、訳す人が好意的にみるか反感を持つかによって訳語も変わる。
 そして、それがポピュリズムの実態であるような気がわたしにはする。
 訳す人の立場や好みによって、姿が変わる。それがポピュリズムだと思う。
 
 ポピュリズム政党の存在価値や役割も、時代の状況と状況の展開によって異なってくるというのが実際のところなのだろう。

 今の日本では、ポピュリズム政党は必要であるような気がする。
 鋏がないとどうにもならないという場面があるからだ。

 ただ、なんでも鋏で開けられるかというと、そうも言えない。

 ポピュリズム政党についても、似たようなことが言えるような気がする。


 

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