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動画写真集『Time stumbling』 SIGMA fpと中判フィルムカメラ

島根県の中央部「温泉津」から「出雲大社」までのPhoto road movie。

遅れてきた真夏のような9月、国道9号線を東へ進む。

山陰の大動脈である国道9号線は、海岸線を舐めるように細い道路が崖にへばりついている。

まばらな集落には歴史と衰退を感じさせる影があり、道路脇には日中にもかからわず奥山の獣がのんきに日向ぼっこしている。

先日念願叶い「Piles of Time」という鈴木理策の写真集を手にいれた。

青森県の恐山と三重県の花窟神社への旅のロードムービー風写真集。

旅にしては旅らしくない、しかしどこかで見たような景色の写真、そこには誰からも意識されるわけでもなく過ぎ去った時間が克明に記録されている。

観光写真、記録写真でもなければ、無闇矢鱈に撮り貯めた写真でもない。

ただ過ぎ去りゆく景色という名の時間を捉えた写真なのだ。

時間は誰しもが一方通行的に流れていくものだと思っているが、それは想起されることでふと目の前に現れてくることがある。

それでいて旅の景色のように、初めての場所でも「どこかで見た景色」が存在する。

その時間の残骸、とっかかりのような棘、時間のつまずき、それが不明瞭な記憶としてどこかに引っかかる。


この引っかかった瞬間を捉えることができるのは、写真だけだ。

動画ではそれが撮れていたとしても、こちらが意識することができない。

それは動画には時間軸があるからだ。流れ行く時間には重力があり、意識を引きつける方向性が生じ、それがいずれ限界を作ることで経験的な世界観が生まれてしまう。時間により意識に働く不可抗力が、意識を限定的な空間に押し込めようとしてしまうのだ。


写真はそれだけで見る人間の意識をもぎ取ることができる。

そして連続して写真を見ることで、見る人間の意識がぶつ切りにされ、その間を無意識下で取り繕わせようとする。

写真集とは、見る人間の無意識下での取り繕いを気づかせることにより、意識の確固たる信頼を揺るがせることができるのだ。

そして一枚一枚で見ると、それはただの写真でしかないとも気づかせてくれる。

時間はただ流れるが、人間はその全体を感じながら一部しか目にしていない。

当たり前の世界の不確実性と、それに気づくことで起こる困惑、一本の線のようにつながる自分という存在意識の誤謬性、しかしまたいつもどおりに過ぎ去っていく日常と自分の時間。

写真とは、その隙間に立ち止まらせてくれるものである。


Time stumbling=時間のつまずき



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