見出し画像

鳥取写真旅〜植田正治の写真論

こういう御時世なので、あいも変わらず旅に餓えている。
今回は鳥取写真旅と植田正治の写真について。

師走の候、山陰は鳥取県に行って参った。
我が故郷、世界最先端高齢化社会の梁山泊『山陰』。
そこには古代の栄光を未だに引きずり、というかそれしかねえな、あと自然かな、う〜ん、城とか砂丘もあるよ、あと錦織圭!
若者を都会に送ることで寂れていったこの地域は、高度経済成長のための敗戦を経験し、今や無人の廃屋でイノシシが快適に眠っている。

そんな山陰といえば、我らが植田正治先生である。
永遠のアマチュアとして山陰を撮り続け、それでいて世界的に評価されるという故郷におフランス錦を飾った偉大なる頑固な山陰人。
彼のせいで、「どうせ田舎だから」という言い訳をできなくさせてしまったマホトーン爺さんでもある。
田んぼの真中にひっそりと佇む植田正治写真美術館は、山陰を愛した照れ屋な巨匠の眼に扮したカメラ的構造をしており、そのファインダーの先には山陰の名峰大山が鎮座している。
これぞ山陰人である。
山陰人は寡黙で自嘲的で諦めの境地をすでに超え、それでいて都会にはなんとも言えない複雑な感情を抱いている。


かくいう僕もそうで、こんななんにもないところから巣立ち一度は都会に出てみたものの、「こんなところ人間(山陰産)の住むところじゃない」と5年も持たなかった。
都会は五感を常に刺激され続け、人は多いし、常に混んでいる。車に乗っているにも関わらず、目視できるすぐそこの目標地点までバカみたいに待たされる。
便利さと豊かさのために、この非人間的な扱いに耐えられるのか都会人よ!
僕は日々満員電車や大渋滞に巻き込まれ、夜も明るく騒音が激しい街で暮らすことに違和感を感じずに平然としている都会人はニュータイプだと思った。


そんなオールドタイプな僕は、こうして過疎地域に統計的には貢献して生活しているのだが、植田正治の気持ちが幾分かわかるようになってきた。
植田正治は土門拳と対峙するくらい名声を得ていたにもかかわらず、終生鳥取の写真おじさんであった。
写真をアートと断定するのであれば、かの時代こそ「東京」でなくてはならなかったはずだ。そして植田正治は野心もあったはずだ。あれだけ写真賞を狙って投稿し続けたんだしね。
しかし、彼は山陰の地を譲らなかった。
東京は硬直しているのである。
面白いことに、都会こそ多様性がなく、排外的で競争こそが目的となっているからだ。


都会の刺激と都会にあるチャンスとは、ある一点に集約されていくという特徴がある。
これは中平卓馬が指摘している時代性である。
都会を都会足らしめているのは経済であり、大量消費社会において時代性=流行はチャンスではなく商機である。
その時代性の頂点こそ、没落の始まりであり、個人は消費される。
これは一発屋芸人の倫理である。
彼らはそのギャグだけを消費され、飽きられると過去の人扱い。
その間の彼らの個人の存在価値は見捨てられている。
写真は時代性と相性が良く、だからこそただ消費される運命にある。
写真に個性など宿らないのだ。宿るとすれば、それは金の匂いだけなのである。
写真の流行表現はすぐに消費的目的に使い倒され、それに群がる群衆がいる間にいかに儲けるか、盗み取るか、逃げ切るか、定位置を確保するか・・・中平卓馬はそれに嫌気が差してフィルムをすべて焼き、そして何も撮れなくなってしまった。


その答えが植田正治であると思う。
植田正治が生涯アマチュア・生涯山陰人であろうとしたことは、山陰の田舎から都会を鋭く見ていたからである。
我々は都会に憧れている。僻みも一切なく憧れている。
だがそこにあるのは、マトリックスの世界だ。
都会は人々に夢を見せ、そして管理し、ある一点へと集約しようとする一神教の世界。
山陰は八百万の神の国、一神教の侵攻を許さないくらい(経済的価値が)なにもない不毛な土地。
この一神教的な競争倫理に落とし込み管理するというやり方に、潜在的な違和感を抱ける数少ない民族、それが我らがど田舎山陰人。
故に植田正治はオリジナリティを、ひたすら惑わされることなく追求し続けた。
それが世界的評価に繋がっているのだと思う。
植田正治の写真はどれも個性がどぎつく、茶目っ気がある。
照れ笑い、そんな写真が多い。
これこそ、山陰人の為せる技なのだ。

植田正治にシンパシーを感じるのであれば、是非訪れて欲しいです。


サポートいただきましたら、すべてフィルム購入と現像代に使わせていただきます。POTRA高いよね・・・