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写真集『Time stumbling』温泉津①

島根県の中央部「温泉津」から「出雲大社」までのロードトリップ写真集。


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島根県西部から温泉津を経由して出雲大社を目指す。

ど田舎の地理など微塵も興味のない方には何の事かさっぱりだろうが、簡単に説明すると何もないど田舎から何かある田舎までの旅だ。

旅、それは2つの意味がある。目的があるかないか。


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今回の旅は前者であり後者である。

なぜかというと、例のウイルスの影響で否応無く島根県に閉じ込められていること。

そして何もないと思っていた島根県を隈なく目を凝らして移動しているこの2年間という日々は、無意識に流れる諦めの情景への逆説的な目的のある旅といえるのではないだろうか?


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旅とは要するに時間なのである。

移動は時間に沿って、旅は時間の意味を規定する。

何もないはずの見慣れた景色に意識を留めること、それは今やできない旅に対しての『メタ旅』だと思えるのである。


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今回の動画写真集の題名は『Time stumbling』

直訳で「時間のつまづき」


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動画概要欄にも書いたが、これは「Piles of Time」という鈴木理策の写真集を手に入れてから「写真と時間」についてああでもないこうでもないと考えたからだ。

この写真集、ずっと欲しかったんだよね。


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「Piles of Time」は、青森県の恐山と三重県の花窟神社への旅のロードムービー風写真集となっている。

連続する写真が、旅の道程となり、見る人を空間的/時間的な旅へ誘う。


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旅写真集は時間を疑似体験することができるが、それは写真と写真の間を見ている人間に想起させることができるからだ。


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「Piles of Time」は点と点を結ぶように時間が流れていくが、その時間の緩急が滅茶苦茶である。

夜から朝へと時間が飛んだかと思えば、関係のありそうでないような写真へ飛び、そうかと思えば直近の情景であろう写真が続く。


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いわゆる観光写真はなく、記録的な旅の情報もない。

あるのは、旅の時間軸の中であったであろう景色。だが、この景色はどこかで見たことのあるような幻想を抱かせる。


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没個性的な景色、当時の日本のどこかでありながら、しかしその瞬間が僕の記憶の中にありそうな気がしてならない。

旅の情景を傍観しつつ、ただ流れ行く時間の中でわずかに生じる刹那的な意識と無意識の間でのみ光る情景を写しているのだ。

それが規則的な旅という時間軸として提示され、僅かな疑念と自己の記憶とのまどろみの中で、その旅は必ずあったのであろうという確信だけを抱かせる。

これは「時間のつまづき」だけを捉えた連続写真なのだ。


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そう思えた時、この「Piles of Time」を僕なりの解釈で小旅行を撮ってやろうと思ったのだ。

現在の異質な環境の中で。

だがこの異質さはそもそも異質であった現代のライフスタイルへのアンチテーゼであるのかもしれない。

なんせこんな異質な環境に陥ったのも、非人間的な自然環境の人工的解釈の賜物なのだから。


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しかし、我々は生き続けている。

まさに時間のつまづきの連続という時間軸が無数に存在するだけのこの世界で。


Sigma fp + Leica summicron R50mm
Plaubei makina67
続く



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