これから一緒に、名栗(なぐり)に行こうか!
Yah Yah Yah♪ ってチャゲ&飛鳥の名曲がつい頭の中に浮かびながら、埼玉県の飯能は名栗へ行きましょう!
アニメ「ヤマノススメ next summit」で美しい名栗湖が描写されましたが、自然豊かな名栗の渓谷。
秋は紅葉が美しい… はずですが、すいません、冬です。しかし、冬の山間(やまあい)の冷たくキリリとした空気も格別なものです。
けどまあ、今回は名栗の美しい自然と興味深い歴史、そしてヤマノススメの聖地にも触れながら、飯能観光のオススメ「なぐりめぐり」の魅力を勧めたいと思います!
飯能駅から国際興業バス「名栗車庫」または「名郷」行きへ、約1時間程度。名郷は、飯能から西武秩父線の吾野(あがの)の近く。吾野など「阿賀野」などの地名は各地に多く、「(山に)上がった野原」など由来は様々。飯能市博物館によれば14世紀の元享4年の秩父神社の記録に「吾那(あがな)郷」という地名が出てきます。
名郷もここからきた地名かな。
名栗は、栗の大木が多かったこと(1810 新編武蔵風土記稿)や、韓国語の狸(ノグリ)から来たとか(このあたりは高麗という白村江の戦いの際に土着した朝鮮人に与えられた郡がある)。個人的に、ネットで調べたら木材の加工の技法に「名栗加工」という木材を殴ったように削る技法があるらしく。林業がさかんなこの地域ですから、これも由来の可能性を感じます。
バスの本数は平日は1時間に1本、土日祝は2本。1時間程度の乗車かつ、なかなか多くないので乗る前にはトイレに済ませましょう(僕はトイレがないと落ち着かないタイプ)。
スポットとしては名栗湖近くの「ノーラ名栗・さわらびの湯」で降車するとよいでしょう。もちろん、棒の嶺などの登山や大松閣の温泉と美食も楽しめます。しかし、僕はちょっと小殿で降車。ここの役場に郷土資料館「名栗くらしの展示室」(現在は飯能市と名栗村の合併により飯能市博物館の分館)があります。
さて、郷土資料館を巡り歩く僕はやはり、まずは「名栗くらしの展示室」に向かいます。
名栗くらしの展示室(名栗の郷土と民俗に親しもう!)
名栗の産業を支えた第一の仕事は、炭焼きである。
まだ電気もガスもなかったころ、人々は薪(まき・たきぎ)で火を起こしていたが、薪は火の調整が難しい。炭は木を炭化させたもので、火力が安定し長持ちする。昔は炭の需要が多く、特に江戸などの都市に近い西武の山間部、飯能やその南の青梅や檜原村など多摩の山間部でも炭焼きを生業にしているものが多かった。
女性は背負子に2俵、男性は3俵担げるようになって一人前だったとか。
白炭はナラの生木を一気に高温で焼き、ゴバイ(水分のある土と灰)をかぶせ消化し、火力が強く火持ちが良い高級品。黒炭は雑木の木を3日間焼き2日間窯で冷まし乾燥、火が付きやすく火力も火持ちも弱いが安い家庭用。
人々はこれを飯能の炭問屋まで出荷して、飯能で米や麦などの食料を買っていた。人々は朝3時ごろには家から窯まで通い、帰宅は夜の8時から9時ころ。女性は炭俵までつくる。
しかし、戦後の木材景気(高度経済成長期の建築ラッシュ)で次々と杉・檜など木材加工しやすい針葉樹が植林され、ナラやサクラなど原木が入手できなくなったことや、昭和30年代の燃料革命(石炭や1960年代の石油中心となる時期か)で製炭業は一気に衰える。
今は電気の普及により楽な仕事が増えた。その分、生活に楽しみが増え、娯楽や仕事を満喫できるのだ。げに、先人たちの苦労を経て今がある有難いこと。
炭焼き以外の仕事として、農業や養蚕がある。養蚕は農家の副業として、群馬や埼玉の熊谷~秩父など西武、西東京・多摩から相模原など神奈川県、山梨県の方面などでも発達、特に桑都といわれ横浜に生糸や絹織物を出荷していた八王子を拠点に、入間の茶栽培とともに幕末から明治の輸出品では最大、日本の基幹産業となる。
1年に春・夏・秋の年3回、短期間で現金収入がえられ、名栗にも多く桑を育て蚕を飼う養蚕農家が見られた。
家では母屋の2階だけでなく、1回の多くを蚕室にしており、家族は蚕棚の合間に布団を敷き、人権より蚕の生存権が優先されたようだ。
この仕事も戦後の安い輸入衣類によって激減、名栗では昭和60年には一軒も観られなくなった。
農業では、名栗は山間の渓谷なため、水田ができない。ほとんどが麦で、麦飯用の大麦をそのままだと硬いためヒキワリにしたり、のち機械でつぶす押し麦にして食べていた。おめでたいとき用に小麦をつくり、手間がかかるがぜいたく品のうどんも食べる(いわゆる、埼玉や多摩や神奈川でもつくられる武蔵野うどん)。
そして、名栗や飯能の経済を支え、今でも見直しがされている「西川材」。
江戸の建設業でも大いに役に立ったこの木材は、筏(いかだ)を組んで入間川を渡り、川越付近で荒川と合流。荒川も秩父方面の木材も運ばれ、やがて川口を抜けて赤羽で隅田川に分流されたり、本所・両国・亀戸は今の江東区、下町低地こと隅田川と荒川のデルタ地帯を形作り、木材は木場にて蓄えられる。江戸の人から見て、西から来たから「西川材」のようだ。
どうやらリレー形式のようで、下流の方まで筏を流し、そこで売る。あとは徒歩で帰る。
また、筏を連結したりして、さらに下流へ別の業者が運んでいたか。
いずれにせよ、川のまわりには河岸町や河原町などができ、飯能河原も筏師たちの筏町でにぎわっていた。やがて武蔵野鉄道(西武池袋線)ができると、飯能駅前が木材の溜まり場に。
ムフー!今研究している荒川の話につながりそう!
ボリューミーでしたが、名栗の歴史写真を載せて、「くらしの展示室」を出るとしよう。
どうでしょうか、名栗の歴史をちょっとは体感できたでしょうか!?
ノーラ名栗・さわらびの湯まで歩きましょう!
名栗湖へ向かいましょう!
ノーラ名栗・さわらびの湯をスルーして、名栗湖こと有間ダムを目指します。
ここから、ヤマノススメノ6話のきれいな作画もお楽しみください。
道沿いのゆくと、さわらびの湯を下に見ながら、しばらく坂を上ります。徒歩20分くらいかな。
ダムの背中が見えてきました!
有間ダムです。名栗湖は人造ダム湖。村人はあまり住んでなかったようですが、現地の人との交渉は必然だったようです。
相模原の津久井湖、そして埼玉と東京の境目にある狭山湖・多摩湖、青梅の奥地の奥多摩湖。村が沈んでできたダムについては、いくつも記事にしてきましたので、「下に村があったのか」という妙な感慨は無く、割と心明るく湖面を見ることができました。
名栗湖の観光名所であるカヌー工房。見学もでき、カヌーにも乗れる、釣りもできる、すばらしいところです。もう時間遅くて入れませんが。
名栗湖ができる前。山奥の人里離れた合間の、川と道をダムに沈めたのでしょう。ダム建設により貯水力もあがり洪水も減り、新しい道もでき、観光スポットもでき、決して環境破壊の悪い点だけではないでしょう。
次第に、日が沈み始めます…(っていうか、無音。そして灯りがあまりない。闇に染まると、遭難っぽくなる…!?)
カヌー工房から名栗湖入口に戻ります。
半ば夜道の坂を下り、イノシシやクマの出現率もあるかもしれない怖さをやや抱えつつ、さわらびの湯の温泉につかりにいきます♪
ちなみに、午後六時まで。ただいま時間5時10分。
前に、さわらびの湯とノーラ名栗の駐車場前のカフェで買っておいたイワナの燻製。凍えた体を温めた温泉後の、冷たいビールにハムのような燻製香と濃厚なうま味が染み入ります。
6時10分の最終一歩前のバスに乗りこみ、飯能に戻ります。夜景は撮らなかったのですが、暗い山々を染めた真っ黒な闇と、ちらほら見える住居の灯りの静寂(しじま)が、また地味ながらも名栗ラブの僕にとり歴史を感じつつ愛おしくて。
もう、心の中は「うどん食べたいっ!」です。久しぶり、東飯能駅前の久兵衛屋というローカルチェーン店で、地元のお酒を飲みながら、もつ煮と冷奴と、かぼちゃほうとううどんをいただきました。
みなさんも、こんな名栗、いかがでしょうか。
美しい自然、古い建物に歴史を感じる田舎の風景。山と川が織りなすおいしい食べ物。僕は散策だけでしたが、カヌー体験、釣り、登山、バイクツーリング。みなさんの思い思いに楽しい名栗を体験できるでしょう。
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