見出し画像

西武の水がめ・奥多摩

水を確保せよ!奥多摩をダムに選ぶ。

東京の近郊である西武や多摩地区。西武線や中央線・京王線など交通の発達で都内で働く人々が多く住む地域。池袋や新宿・渋谷などのターミナルを入口として、これらの路線は東京の近郊都市の世田谷や、神奈川の川崎・横浜・相模原ともつながる。

その水源である多摩川。江戸時代には玉川上水が羽村から四谷まで伸び、「人が住めない土地」と言われた台地・丘陵地が多く水が得にくいこの地域を潤してきた。

もともと江戸は、東部の浅草などの下町低地に人口が集中していた。
しかし、関東大震災で運命が変わる。地盤の弱い東部の低地から、地盤の強い西部の丘陵地・台地に人口が集中するようになる。
信じられないようだが、閑散としていた池袋・新宿・渋谷に人が集まり始めたのはこのころだった。

まさに水源は多摩川。そして羽村から江戸へ伸びた玉川上水や、各地に枝分かれした千川上水・野火止用水などの分水路はこの江戸の西部地区のライフラインとなった。

羽村取水堰にて。
羽村郷土博物館より。いたる土地へ分水。

多摩川。その水源である奥多摩湖は、現在でも関東の水道の中心核といえよう。

東京都水道歴史館より。

江戸が終わり、東京となった明治時代。人口増加と玉川上水の限界により、玉川上水を江戸に迎え地下水道などにより首都に供給する「四谷木戸」より、手前の新宿・淀橋に浄水場をつくる。今の新宿都庁に広大な淀橋浄水場があった。
さらに、人口増加による不足する水を蓄えるため、以前の記事でも描いたが、玉川上水北部の狭山丘陵にある村々を沈め、狭山湖(山口貯水池)と多摩湖(村山貯水池)のダム湖をつくる。

さらに、供給量を確保するために、戦前に計画された多摩川水源の小河内村。ここをダムにするべく、首都東京は選び、この小河内貯水池の「小河内ダム」こと奥多摩湖は、日本最大の貯水池となる。

ダムに沈んだ小河内村

奥多摩駅からバスで20分くらい?
この新道の下に、ダムに沈んだ小河内村が。
この底。

東京と山梨の県境、険しい山々が連なる関東山地。この山間部の入り口である多摩丘陵の北部にあった小河内村は、同時に東京の奥地とも言える。山間部のため、米がつくれない。人々は、麦や雑穀をつくり貴重な穀物を食べていた。おそらく麦飯、さらに野菜などを入れて嵩(かさ=量)増しした「かて飯」にしたり、雑炊…いや、すいとんなどか。そばもつくり蕎麦がきも食べていたのだろう。山間部では芋の生産も行われたようで、じゃがいもは明治以降に日本に広まるが、江戸時代はききん用として栽培された。小河内村の南部にある現在も東京本土(離島ではない)の唯一の村「檜原村」でもオイネイモがつくられており、小河内村には治助芋が100年以上前から生産されていた。
仕事や農作業の合間に食べる小昼飯(こじゅうはん)。イモや、小麦の生地を焼いて野菜やら入れた「たらし焼き(小麦粉の生地を溶いていろいろ入れて焼くクレープ生地みたいなものか)」など粉もの。残り物のご飯やおかずなどを小麦粉の生地に入れて焼いた「めしもち」なんてものもあるが、埼玉の秩父の郷土料理でもあるらしい。すぐ北は秩父だしなぁ。
たらし焼きは茨城とかでも食べられている(アニメのガールズアンドパンツァー最終章でも大洗町でたらし焼きを食べていたな)。

檜原村郷土博物館より、檜原村のようす。
同博物館にて。とった魚を煙でいぶす。奥多摩の土産も川魚の燻製なので、こんな感じか?
奥多摩駅前で買ったヤマメの燻製。
奥多摩「水と緑のふれあい館」にて。なお画像はどれも博物館に撮影許可は得ています。

また、副食は現地調達で人々の趣味である漁や猟、山菜採り。江戸時代は表向き肉食は禁忌であったが、鹿肉をとったり、鮎やヤマメをとったり。うさぎや鳥など。ごちそうとしてはうどんであろう。お祝いや行事などみんなで集まるときは、家族があつまりうどん粉をこね始める。奥多摩の郷土料理に「のしこみうどん」がある。こしがあるうどんを伸ばす「のしこみ」か。煮干しやしいたけの出汁に酒やしょうゆに塩。なべで具材と煮込む「ずりだしうどん」で、山梨にも近いためほうとうの影響もあったのか、山間部のうどん文化の1つだ。

奥多摩の「水と緑のふれあい館」にて、鹿そばを食べる。ふつうの獣肉だが、当時の人々にとり、肉はごちそうなのだろう。蕎麦は絶品!

現金収入もあったろう。山間部の林業は木材や薪だけではなく炭焼きも、昔の人々の貴重な燃料資源だった。そして清流を活かした山葵(わさび)栽培。山葵は江戸が消費地だったろう。
小河内村には南北朝時代に開湯されたという「鶴の湯温泉」も湧出し、観光地としても有名であった。

民家も周辺と同じように、入り口に入るとカマドなどがある土間、入り口にお風呂…というか水だらいや桶がある場所でここで洗ってた感じか。土間から上がると囲炉裏部屋、囲炉裏は常に火をつけて屋根をいぶして家が害虫で食われないよう保存の意図があるけども…これが眼病のもとにもなったのだろう。囲炉裏部屋の周りに座敷や奥があり、屋根裏は養蚕をしていたのかな。
風呂もそんなに入らず行水程度で着物も貴重品だろうから、皮膚病や虫に食われるとかあったのだろう。以前記事(つぶやき)にした、イザベラバードの漫画から思う。

小河内村から離れた世帯は945戸、6000人。
村人は故郷を守るため、ダム建設に絶対反対だったが、東京は「幾百万市民の生命を守り、帝都の御用水のための光栄ある犠牲である」と再三説得。日本共産党らが破壊活動を目的とした工作隊を派遣したが、警察により失敗。
村民たちは、国の繁栄のための犠牲を受け入れる。
ふれあい館にも展示された動画は、東京都公式動画としても公開されているが、小河内村と人々のようす、特に小河内小学校の児童の作文「しばらくは呆然として校庭に立ちすくんでいた。いつの間にか僕の目には涙が浮かんできた。こうなると、なんとなくダムが憎らしくなり、打ち壊したいような気がする。しかし、小河内ダムがこの世の中のためになれば、大いにこのダムの完成を祝福しなければならないのだ。」

1937年に歌手の東海林太郎が小河内村を思い発表した「湖底の故郷」は大ヒットし、この碑の除幕式に集まる元村民ら、直立不動で歌う東海林の姿に嗚咽が響いたという。
歌詞は、故郷を失い旅立った人々の思いが描写されている。それでも今日に臨む人々。どんな人にも響く歌だろう。

工事は太平洋戦争で中断するも、1957年に完成。87名がダム工事で殉職した。

2006年にはダム湖百選にも選ばれ、観光地となる。ダムはドラム缶橋で一部が渡れ。周辺も「山のふるさと村」でキャンプ場やクラフトセンターやレストランなどを楽しんだり。東京最高峰の雲取山にも近く、日原鍾乳洞も近い。

小河内村は周辺の村と合併し、奥多摩町となり消滅。
現在、釜飯などグルメ、温泉も楽しめ、レジャースポットと有名になった奥多摩町。

この谷底の村が滅んだ。
現在も谷に町がならぶ。石垣が敷かれている家屋が多いのは洪水対策か。
奥多摩駅から青梅に戻る。青梅も檜原村も五日市も、さらには西武も多摩も、その先の川崎も、八王子から相模原も。この後相模原の博物館も行ったのだが、共通するものも相違するものもあり興味深い。

谷底に、確かに人々が住んでいた「町」があった。その遺跡から当時を思う。そしてその犠牲のもとに、我々の生活が繋がったことを思う。

次回は、相模湖に沈んだ集落・勝瀬なども追ってみよう。
現在、相模原市博物館で資料がないか追い求め、学芸員さんから勝瀬の本をお借りしたところ。
次回は相模湖に行き、勝瀬の様子もたどり、追い求めたい。何か資料はないかなぁ。この地域と近いから、似ているところも多いと思うのだが。
(相模原は多摩や西武と同じく、養蚕の繭を八王子に出荷していたため蚕のえさの桑畑が広がっていた。同じつながりや、違いも見えてくるだろう。)

この記事が参加している募集

この街がすき

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?