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〝自己一致〟とは何か?

先日、産業カウンセラーやキャリアコンサルタントの方たちが集まる勉強会で〝自己一致〟をテーマに「対話型のワークショップ」を行った。


自己一致・・・・


これがなかなかのやっかいなワードで、言葉の意味はよくわからないし、概念も掴みにくい。解釈は人によってバラバラで


「えっ、自己一致って、そういうものだっっけ?」
「ん・・、それって自己一致の話で合ってる?」


なんてことがしょっちゅう起こる難解なテーマである。

もちろん産業カウンセラーのような人たちなら、例外なく自己一致について一度は学んでいるのだが、それを「自分の言葉で説明する」「自分なりの解釈を語る」となると、そう簡単にはいかないのだ。

実際のワークショップでは「1セッション45分」のグループワークを2回


【第1セッション】 〝自己一致〟とは何か?

【第2セッション】 なぜ、カウンセラー・カウンセリングに〝自己一致〟が必要なのか?


というテーマで実施した。
これまでにもこうした対話型のワークショップは何度も行っているが、


●概念が掴みにくく

●論点が乱立しやすい


という点では、もっとも難しいテーマの一つだったかもしれない。

もちろん、ワークショップを開催するにあたり、私も「自己一致とは何か?」という問いに向き合い、頭から煙が出るくらい考えた。

そして結論にたどり着いた・・・というほどではないが、自分なりには2つのキーワードで〝自己一致〟というものを捉えている。


それが「メタ認知」「ジャッジフリー」。


メタ認知とは「自分のことを俯瞰して捉える」ということで、たとえば「悲しい」「悔しい」という感情を抱くことが通常の認知である一方、そんな「悲しんでいる自分」「悔しいと思っている自分」を俯瞰して感じることが「メタ認知」である。


もうひとつの「ジャッジフリー」というのは、『人生に、上下も勝ち負けもありません』という本(精神科医の野村総一郎さんの著書)のなかで語られていた概念で、端的に言えば「ものごとをジャッジしない」という思想である。
https://www.amazon.co.jp/dp/4866511230/

ストレスフリー、シュガーフリー、グルテンフリーなどと同じように「ジャッジがない状態」「ジャッジしないという思想」のことをジャッジフリーと呼んでいる。

すなわち、

「今、自分が感じていること」「行動していること」をメタ認知して、それをそのままジャッジフリーで受け入れる。


それが、私の考える〝自己一致〟である。


くだらない例で申し訳ないが、たとえば知人の誰かの活躍を見て、


●悔しいなぁ・・・
●妬ましいなぁ・・・
●なんで、そんな活躍を自慢げにSNSにアップするんだよ!


なんて思うことがある。

なんとも、心が狭くて、みっともない感情なので、「そんな感情を抱いている自分」を受け入れたくないし、認めたくもない。
それ以前に「そんな自分は存在しない」「そんなことは思っていない!」と思いたい・・・・


でも、そういうときこそ、まずは「メタ認知」を意識して〝そんな自分〟が存在していることを、とりあえず俯瞰で見つめるのだ。

ここまでがメタ認知。


ただし、そのとき〝そんな自分〟を


みっともない・・・
恥ずかしい・・・
カッコ悪い・・・


と思ってしまうと、やっぱり私も人間なので、ほとんど反射的に、その認知を歪めようとしたり、打ち消して「存在していないこと」にしようと、ついしてしまう。

これでは自己一致から離れてしまう。

そこで登場するのが〝ジャッジフリー〟である。

「みっともない」「恥ずかしい」というのも、そもそも〝ジャッジ〟なので、すべてのジャッジを排して「ただ、そこに〝そんな自分〟がいる」という・・・イメージで捉えるのだ。

もちろん、言葉で言うほど簡単なことではない。

でも、とりあえず〝ジャッジフリー〟という言葉を思い浮かべることで、〝ジャッジしている自分〟に気づけるし、ほんの少しだけもジャッジをやめて、「ありのままの自分」を受け入れられそうな気持ちになる。そんなメンタリティに近づいていく。

この心の動きこそ、私は〝自己一致に向かっている〟ということだと思っている。


〝自己一致〟とは〝悟り〟と同じようなもので、完璧に実現できるものではないが、


〝メタ認知〟と〝ジャッジフリー〟


というのは「自己一致を理解する」という意味でも、「自己一致に近づいていく」という目的においても、なかなか悪くないキーワードだと私は思っている。




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