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「ハックルベリーフィンの冒険」における、アメリカ人種差別の根幹



マーク・トウェイン文学の研究
「ハックルベリーフィンの冒険」における、アメリカ人種差別の根幹


この論文は、2002年に、とある女子大生に書かされた卒業論文である(笑)
アメリカで起こっている人種差別問題を考える上で重要なヒントがあると思いここに公開するものである。


女子大生が、教授から「本当にこれ貴女が書いたの?」と疑われてしまった事は言うまでもない・・・(笑)

*改行や句読点など校正してないので、読みにくいと思いますが、あしからず


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 「ハックルベリーフィンの冒険」を読んでまず気になったのは、奴
隷の存在である。当時のアメリカでは当たり前のような出来事だが、現
在の私達の感覚では理解し得ない状況も作品中には多々あった。そこで、
アメリカの人種差別の根幹を「ハックルベリーフィンの冒険」から考察
することにする。
「ハックルベリーフィンの冒険」では、全編に渡って主人公であるハ
ックルベリーフィンと黒人の奴隷ビルが、河を下って冒険していく様子
が描かれている。何故、二人が河を下らなければいけなかったのか?
二人は親友でピクニックやレジャーの延長線上で河を下ったのだろう
か?そうではない。答えは奴隷制度から逃げるためである。黒人奴隷の
ビルが逃げるのは簡単に想像できるが、黒人奴隷でもないハックルベリ
ーフィンまでもが逃げなければいけなかった理由が、この物語が描かれ
た時代を写していると考えられる。
さらに、肌の色による人種差別だけでなく、貧富の差という階級によ
る人種差別も忘れてはいけない要素の一つだと考えられる。この物語が
描かれた時代と現代のアメリカの価値観の違い、差なども取り上げなが
ら、あらゆる角度から「マークトウェイン文学」の真髄に迫ることにす
る。

「人種差別とは?」

人種差別という問題の定義づけをする必要がある。人種とは何か?辞
書で「人種」を調べると
(1)地球上の人類を、骨格・皮膚の色・毛髪の形など身体形質の特徴
によって区別した種類。普通、白色人種・黒色人種・黄色人種に三大
別するが、分類不能な集団も多い。
(2)人を環境・職業などの違いによる生活習慣や気質を共通の特徴と
して分類した言い方。族。
と出ているが、(1)の意味として定義付けするのが、人種差別問題を取
り上げる上で適切だと判断した。ここでいう人種は、まさしく人の種で
あり、言い換えれば「血」である。そこに流れる「DNA」の違いを指
して、差別化する。これこそ人種差別の原点だと言える。
現在もなお続く人種差別問題は、世界各地で消える事ない永遠のテー
マとなっている。私たちが住む、ここ日本でも人種差別は多々ある。最
近話題の北朝鮮問題の根幹には少なからずとも人種差別が絡み付いてい
るのは明白だ。第二次世界大戦下において、悪の枢軸国とされ、敗戦国
三国は現在も敗戦国として、国連や世界的に差別され続けている。戦争
という殺し合いの中で日本だけが、悪い事をしたと言い続け、日本人拉
致、その他テロ事件を起こしても、もともとは日本が悪いと言われ続け
る。ここで、戦争問題を取り上げるつもりはないが、人種差別問題や、
今回のマークトウェイン文学の中に出てくる黒人奴隷の問題を考察する
には、それが起こった歴史を紐解かざるを得ないと判断した。

「黒人奴隷の本質」

黒人奴隷制度そのものが「ハックルベリーフィンの冒険」では裏に潜
むテーマでもあるように思える。何故ならば、「黒人」、「くろんぼ」など
と黒人を特殊な存在として位置づけているからだ。人種差別の問題と平
行して黒人奴隷制度の成り立ちを歴史的観点から考察してみる事にする。

ポルトガル人によるアフリカ西岸の探検以来、ヨーロッパ諸国による黒
人奴隷貿易が始まった。  
特に16世紀にスペインが新大陸での金銀の鉱山開発に黒人奴隷を使
役するようになると黒人奴隷貿易は活発化した。 スペイン人は、新大陸
での金銀の鉱山開発に最初は原住民のインディオを強制的に使役したが、
酷使によってインディオの人口が激減し、労働力が不足すると、アフリ
カの黒人奴隷を大量に輸入して使役するようになった。
 しかし、17世紀に入ると新大陸の金銀が枯渇し始め、黒人奴隷は鉱山
労働に代わって、さとうきび栽培の労働力として使役されるようになっ
た。
 18世紀にイギリスで紅茶を飲む習慣が普及するとともに、砂糖消費量
が飛躍的に伸びたので、17世紀にはブラジルで、18世紀に入ると西イ
ンド諸島で黒人奴隷を労働力とするさとうきびのプランテーションが発
達し、それとともに黒人奴隷貿易は最盛期を迎え、大量の黒人奴隷がア
フリカから新大陸に運ばれた。
 17~19世紀(18世紀がピーク)にかけてアフリカから新大陸に運ば
れた黒人奴隷の数は1000万人前後と推定されているが、彼らは暴動を
防ぐために船底に鎖につながれて、身動きできないほどのすし詰め状態
で運ばれたので、途中で約3分の1が船中で死亡したといわれ、その数
を加えると1000万人以上の黒人奴隷がアフリカから輸出されたと推定
されている。
 黒人奴隷の多くはアフリカ西海岸、特にギニア湾岸の地域(現在のナ
イジェリア・ベナン・トーゴ共和国の辺りは奴隷海岸と呼ばれた)の地
域から連れ去られた。当時この地域では部族間の抗争が続いていたので、
ヨーロッパ諸国の商人は武器を輸出し、部族同士を戦わせ、その戦争捕
虜を奴隷とした。そのため部族間の抗争に敗れれば奴隷とされるので、
抗争に勝つためにより多くの武器を手に入れようとした。しかし、ヨー
ロッパの商人は奴隷との交換でないと武器を売らなかったので、奴隷狩
りも盛んに行われた。
 こうして、ヨーロッパからアフリカへ武器・雑貨を輸出して黒人奴隷
と交換し、アフリカの黒人奴隷を西インド諸島に運んで砂糖と交換する
ヨーロッパ・アフリカ・新大陸間の三角貿易が盛んとなり、イギリスな
どのヨーロッパ列強はこれによって莫大な利益を得た。
 労働力としての黒人奴隷の対象になったのは若い男女の黒人であった
ので、黒人奴隷を連れ去られたアフリカ西海岸を中心とする地域では、
人口が減少し、貴重な労働力を失って社会の発展は阻害され、次第に後
進地域に陥っていった。
合衆国の領土の拡大・西部の発展とともに、北部・西部・南部のセクシ
ョン(地域)が成立し、セクション間での対立が激しくなった。南部で
は、植民地時代からタバコ栽培を中心とする黒人奴隷を使用するプラン
テーションが発展していたが、イギリスの産業革命によって綿花の需要
が増大し、特にホイットニーの綿繰り機の発明(1793)によって綿花栽
培が急激に増大し、イギリスへの綿花輸出も飛躍的に増大した。そのた
め南部は奴隷制の存続と自由貿易を主張し、1816年以後続けられていた
保護関税政策に強く反対した。
 これに対して米英戦争(1812~14)後、産業革命が進展して資本主義
が発達した北部は、先進工業国イギリスから北部の産業資本を守るため
に保護関税政策を主張し、奴隷制については人道上の理由からも反対し
た。
 また北部は保護関税政策を維持するために連邦主義を主張したが、南
部は州権主義(州の自治・主権を主張する立場)を主張した。北部と南
部の対立は奴隷制度をめぐって激化した。 
 奴隷制度を禁止するか認めるかは州の法律で決められ、また合衆国の
上院は各州から2名の議員が選出されるので、自由州(奴隷制度を禁止
した州)と奴隷州(奴隷制度を認める州)の数は上院の勢力分布に直接
反映されることになる。そのため西部の発展によって新州が成立して連
邦に加入する際に、自由州にするか、奴隷州にするかをめぐって南部と
北部は激しく争った。
 ミズーリ准州が州に昇格する際に、南部と北部が対立した。結局ミズ
ーリ協定が結ばれ、ミズーリ州を奴隷州とするが、以後はミズーリ州の
南境界線の北緯36度30分以北には奴隷制度を認めないことが決議され
た。
 1820年以前には、自由州が11州・奴隷州も11州だったので、ミズー
リ州を奴隷州として認める代わりに、マサチュセッツ州からの分離を要
望していたメイン州を自由州として認めて連邦に加入させ、自由州と奴
隷州の均衡がはかられた。
 しかし、アメリカ=メキシコ戦争(1846~48)によって獲得したカリ
フォルニアのサクラメントの近くで1848年に金鉱が発見されると、世
界中から一攫千金を夢見るおびただしい移民が殺到し、翌1849年だけ
でも8万人以上の人々がカリフォルニアに押しかけた。彼らは、1849
年に移住してきたので「フォーティ=ナイナーズ」と呼ばれている。
 この「ゴールド=ラッシュ」によってカリフォルニアの人口が急増し、
1849年には早くも10万人に達し、州に昇格する条件を満たした。当時
の自由州と奴隷州の数はともに15州であった。カリフォルニアが自由
州として連邦に加入を希望すると、自由州と奴隷州との均衡が崩れるの
で再び南部と北部の対立が激化した。
 カリフォルニアは南北に大きな州で、北緯36度30分が州の中央やや
南を通っていたので、ミズーリ協定で解決することは不可能であった。
結局「1850年の妥協」が成立し、カリフォルニアを自由州にする代わり
に厳重な逃亡奴隷取締り法を制定することで南部と北部は妥協した。
 奴隷制廃止論者たちは、逃亡奴隷取締り法に強く反対し、「地下の鉄道」
という秘密組織をつくり、南部から逃亡してきた奴隷をかくまってカナ
ダへ送り込んだ。
 ストウ夫人(1811~96)は逃亡奴隷取締り法に怒りをかき立てられ、
1851~52年に「アンクル=トムの小屋」を雑誌に連載した。「アンクル
=トムの小屋」が出版されると(1852)、1年間で30万部以上が売れて
ベストセラーとなり、人々に大きな感銘を与えるとともに大きな社会的
反響を呼び起こした。
 このような状況の中で、1854年に「カンザス=ネブラスカ法」が成立
した。これはカンザス=ネブラスカ両州を准州とする際、両州が将来自
由州になるか奴隷州になるかは住民の決定にゆだねるという法であった。
 カンザス=ネブラスカ両州は、ミズーリ協定では当然自由州になるは
ずであったが、南部はミズーリ協定がある限り新州が奴隷州になる望み
がないので、ミズーリ協定の廃棄を強く要望していた。
カンザス=ネブラスカ法の成立は、このミズーリ協定の廃棄を意味し、
また奴隷制度が北部へ拡大する可能性があったので、南部と北部の対立
が再び激化した。
カンザス=ネブラスカ両州が将来自由州になるか奴隷州になるかは住民
投票で決定されることになったので、南部と北部は多くの人々を両州に
移住させ、将来両州を自由州または奴隷州にしようと争ったので対立は
ますます深まり、武力衝突も起こった。
カンザス=ネブラスカ法の成立から2ヶ月後に、奴隷制反対をスローガ
ンとしてホイッグ党を中心に共和党が結成され(1854)、奴隷制度をめ
ぐる南北の対立は決定的となった。
 こうした状況の中で1860年に行われた大統領選挙は激戦であったが
共和党のリンカーンが当選した。
 リンカーン(1809~65、任1861~65)は、貧しい開拓農民の子とし
てケンタッキーの丸太小屋で生まれ、イリノイ州に定着した。独学によ
って弁護士となって開業するとともに、州議会議員・下院議員に選出さ
れてホイッグ党員として活躍した。一時政界を引退したが、共和党が結
成されると奴隷制拡大反対論者であったリンカーンは共和党に加わり、
イリノイ州選出の上院議員に立候補した(1858)。この選挙では敗れた
が選挙中の演説で全国にその名を知られるようになり、1860年の大統領
選挙では共和党の大統領候補となった。そして民主党の分裂などに助け
られ、第16代大統領に当選した。
 リンカーンの当選は南部の奴隷州に衝撃を与え、連邦を脱退して別の
国家をつくろうとする空気が強まり、リンカーンの当選の翌月にサウス
カロライナ州はついに連邦脱退を宣言した(1860.12)。これに続いてリ
ンカーンの大統領就任(当時は大統領就任式は3月に行われた)までの
間に6州が脱退した。
 1861年2月、合衆国を脱退した南部諸州はアメリカ連合国(アメリカ
連邦)を結成して憲法を制定し、ジェファーソン=デヴィス(1808~89、
ミシシッピ州選出の上院議員からアメリカ連合国の大統領となる、任
1861~65)を大統領に選んだ。アメリカ連合国は最初7州で形成された
が、5月までには11州が加わった。
 1861年3月に大統領に就任したリンカーンは連邦の維持を至上目的
とし、連邦を脱退した南部諸州に連邦への復帰を呼びかけたが南部は応
じず、南部にあった合衆国の要塞や武器庫を接収しようとした。この動
きを見たリンカーンはサウスカロライナ州のサムター要塞への弾薬・物
資の補給を命じた。
 1861年4月12日、南軍はサムター要塞に砲撃を開始し、ここに南北
戦争(1861.4~65.4)が始まった。南北戦争は英語では、the Civil War
(内乱)である。北部は南部諸州の合衆国からの脱退を憲法違反として
認めず、従ってアメリカ連合国を国家として認めず、南部諸州の合衆国
に対する内乱という立場をとった。これに対して南部は、アメリカ連合
国とアメリカ合衆国との戦争という立場をとり、南北戦争をthe War
between the States(諸州間の戦い)と呼んでいる。
 南北戦争が始まったときには、北部も南部も戦争は短期間で終わると
考えていたが、予想に反して全面戦争となり、4年間にわたる大内乱と
なった。
 近代戦の勝敗を決定するのは経済力を含めた総合的な戦力である。こ
の点では北部が圧倒的に優勢であった。北部(23州)の人口約2200万
人に対して南部(11州)は約900万人であったがその中には約400万
人の奴隷が含まれていた。経済力では北部が圧倒的に優勢で、北部は近
代的な工業力を持ち、当時の工場の約81%は北部にあった。また鉄道な
どの輸送力の面でも北部が断然優れていた。また海軍力においても優位
に立つ北部は南部に対して海上封鎖を行ったので、南部は唯一の重要な
輸出品である綿花が輸出できなくなり、さらに武器・弾薬・食糧などの
輸入も止まり大打撃を受けた。
 しかし、初期においては南軍が名将リー(1807~70)の指揮下に優勢
に戦いを進めた。
 1862年になると、北部は西部戦線でニューオリンズを占領して
(1862.5)戦いを有利に進めたが、東部戦線ではリッチモンド(アメリ
カ連合国の首都)攻略戦が南軍の激しい抵抗にあって敗退を重ね、苦戦
を強いられていた。
 1862年5月、リンカーンは大統領選挙での公約であったホームステッ
ド法(自営農地法)を制定した。これは公有地に5年間定住して開墾に
従事した者には160エーカー(約65ha)の土地を無償で与えるという
土地立法であったので、農民の西部進出と西部開拓が促進され、また北
部はこれによって西部の支持を得ることが出来た。
 リンカーンは奴隷制度には反対であったが奴隷制拡大反対論者であり、
解放論者ではなかった。彼の南北戦争における最大の目的は連邦の維持
にあった。そのため奴隷制即時廃止論者はリンカーンに奴隷制廃止のた
めにもっと強い政策をとるように要求した。これに対してリンカーンは
次のように回答している(1862.8)。
「この戦争における私の至上の目的は連邦を救うことにあります。奴隷
制度を救うことにも、亡ぼすことにもありません。もし奴隷を一人も解
放せずに連邦を救うことが出来るものならば私はそうするでしょう。そ
してもしすべての奴隷を解放することによって連邦を救えるならば私は
そうするでしょう。またもし一部の奴隷を解放し、他の者をそのままに
しておくことによって連邦を救えるものならそうもするでしょう。私が
奴隷制度や黒人種についてすることはこれが連邦を救うに役立つと信じ
ているためなのです。」(東京法令出版社、世界史資料集より)
リンカーンは、内外の世論の支持を得て戦いを有利に展開するために奴
隷解放宣言を行うことを決意し、1862年9月に予備宣言を行った。以下
はその一部である。
「1863年1月1日を以って、いかなる州においても、また特に州内で人
民が上記年月日に合衆国に対して謀反中と指定される地方において、す
べて奴隷の身分におかれている者は、その日より永久に自由人となるべ
きである。」(山川出版社、史料世界史より)
 1863年1月1日に奴隷解放宣言が行われた。しかし、この時解放され
たのは合衆国に反乱を起こしている州内の奴隷で、ミズーリ州など合衆
国にとどまった奴隷州(4州)の奴隷は除外されており、合衆国国内の
奴隷制度が全面的に廃止されたのは憲法修正第13条(1865年発効)に
よってである。
 1863年7月、リー将軍は7.5万の南軍の主力を率いてワシントンを迂
回してペンシルヴァニアに侵入し、北軍8.7万と3日間にわたって戦っ
た。これが南北戦争中の最大の激戦といわれるゲティスバーグの戦いで
ある。北軍が勝利をおさめ、南軍は退却を余儀なくされた。この戦いで
は北軍2万、南軍2.5万の戦死者がでた。
 リンカーンは戦死者を祀る国有墓地を設立するための式典に出席する
ためにゲティスバーグを訪れ、有名な「ゲティスバーグの演説」を行っ
た(1863.11)。
「・・・これら名誉ある戦死者よりいっそうの献身を受け継いで、彼ら
が最後の全力をあげて身を捧げたその主義のために尽くすべきでありま
す。これら戦死者の死をむだに終わらしめぬよう、ここに固く決意すべ
きであります。この国に、神の恵みのもと、自由の新しき誕生をもたら
し、また人民の、人民による、人民のための政府が、この地上より消滅
することのないようにすべきであります。」(山川出版社、史料世界史よ
り)
 1864年、グラント(後の第18代大統領、任1869~77)が北軍の総司
令官に任命された。彼はリッチモンドを目ざし、これに呼応してシャー
マンの率いる軍がテネシー州からジョージア州に入り、アトランタを陥
れ、そこから北上してリッチモンドに向かった。シャーマンの軍は破壊
と略奪の限りを尽くし、南部の市民を震え上がらせた。
 映画でも有名なミッチェル(1900~49)の『風と共に去りぬ』(1936)
は、南部の立場から南北戦争を描いた名作であるが、その中にも南部の
人々がどんな気持ちでシャーマン軍を迎えたかが書かれている。
 1865年4月、北軍がアメリカ連合国の首都リッチモンドを占領し、4
月9日リー将軍が降伏して南北戦争が終わった。
 南北戦争が終わってわずか5日後、1865年4月14日、二期目の大統
領に就任したばかりのリンカーンが暗殺された。その夜、ワシントンの
フォード劇場で観劇中のリンカーンは南部出身の俳優ブースに狙撃され、
翌朝死去した。
マークトウェインが「ハックルベリーフィンの冒険」を発表したのは、
1884年の事で、1850年の妥協の時は、マークトウェインが15歳という
事になる。まさに奴隷制度の矛盾や人種差別の闘いを、彼が青春をおく
ったその時期に体験したのである。
 何気なく読んでしまっては、気がつかない程度かもしれないが、彼の
胸の奥にある、黒人奴隷への思い、人種差別への苦悩は色濃く作品に表
れていたように思える。
「ハックルベリーフィンの冒険」が描かれた時代の様子、人々の価値
観、政治的背景など考察した結果、黒人奴隷のビルが逃げる理由が明確
であり、それだけで一つのストーリーになっていると言える。「ハックル
ベリーフィンの冒険」がこれだけ多くの人に支持され、読まれ続けてい
るのは、そのストーリーをあえて背景として、純真で自由な少年ハック
ルベリーフィンを主役としている所にある。次に、その魅力的な主人公
について考察してみることにする。

「ハックルベリーフィンの人生観」

行儀は悪いが心が純粋な少年というイメージで描かれているが、彼の
本質とはなんだったのか?また、ハックルベリーフィンの持つ価値観、
人生観などを当時の人々の価値観、人生観などと比較する事で、「ハック
ルベリーフィンの冒険」がスタートせざるを得なかった理由を導き出せ
る。
 まず、ハックルベリーフィンの性格についてだが、自由奔放な純真な
性格だと伺える。トムソーヤと比較すると、能動的というよりは、受動
的な性格で、来るもの拒まずという感じさえ受ける。「本当は好きじゃな
いけど、○○さんが~言うから・・・」のような表現や、心の中を描写
する場面が多々あり、何事にも無頓着なイメージである。
 何も考えていないわけではない、いついかなる状況でも、全てを受け
入れてしまう順応性と寛容な心を持ち合わせている。これがハックルベ
リーフィンの性格だといえる。
 さらに付け加えるならば、純真さから来る正義感だ。正義という言葉
を使用するのは、個人的には好きではないが、この場合あえて正義とい
う言葉を使った。正義と言う言葉の使用を躊躇った理由と、ハックルベ
リーフィンの性格について、正義と言う言葉を使用した理由については
同時に答える事ができる。
「正義」という言葉の裏には「悪」の存在を認める節があると言える。
「正義」を振りかざした者同士が対立すれば、永遠に争いは収まらない
ようになる可能性もある。何故ならば、一方の「正義」は他方には「悪」
として写る場合が多々あるからである。その逆もあり得るわけだから、
「正義」同士の争いは、見解の相違に他ならない。どちらも正しいと言
えるが、どちらも間違っているとも言える。だから軽々しく「正義」と
いう言葉を使う事を躊躇ったのである。
 では、何故、ハックルベリーフィンの性格について、あえて「正義」
を使ったのか?答えは今も述べたとおり、「悪」の要素も含んでいるから
である。
社会の規制という枠の中で生活している人にとっては、ハックルベリ
ーフィンの生き様は「自由」とは思われず、「身勝手」だとか、「反社会
的」と思われがちである。良い悪いという事ではないが、それは見る人
によれば、「悪」である。
 「ハックルベリーフィンの冒険」本文を参照するならば、黒人奴隷の
ビルが逃亡する際に加担する事をハックルベリーフィン自身が法律違反
だという事を認識していた。つまり「悪」だと分かっていたのだ。しか
し、彼は心優しいビルが黒人奴隷というだけで、追われる立場になって
いる事も、ヨーロッパの植民地政策から続く、時代が生み出した「悪」
だという事を認識していた。
 先に、ハックルベリーフィンの性格を指して「純真」という言葉を使
った事も、何が「悪」で「正義」かを見極める、本質を見抜く目を持っ
ていたといえる。マークトウェイン自身の目をハックルベリーフィンと
いう少年に持たせて物語を進めていったとも推察される。ハックルベリ
ーフィンとマークトウェインは、この混沌とした時代に何を見つめてい
たのだろうか

「時代の本質」

 「ハックルベリーフィンの冒険」が書かれた時代は言うまでもなく、
奴隷制度が問題視されている時代である。それは即ち「正義」と「悪」
のぶつかり合った時代でもあり、法という名で守られた「奴隷制度」は
本当の意味で人間性を問うものであったとも言える。
先にも述べたリンカーンの活躍などで南北戦争は終わりを告げ、奴隷制
度は廃止され、すべての奴隷は解放された。
 本来、私たちには無関係な時代の話であり、奴隷制度問題など検討も
つかなければ、それについての感情も簡単に言えるものではない。しか
しながら、「ハックルベリーフィンの冒険」は長い間、多くの人々に愛さ
れ、今もなお、私たちを魅了して止まない。
 この「時代の本質」は単純な奴隷制度ではなく、奴隷制度が起こった
原因、人間の業、様々な人種差別ではないだろうか。現代では、奴隷制
度という悪しき制度がまかり通っている国は皆無といっていい。それに
もかかわらず、読者の心を打つのは、様々な人種差別が脳裏に過ぎるか
らである。
前述の「人種差別とは?」にあるように、戦争の勝敗で差別する側と、
被差別側が決定してしまう。という事は戦争を体験している国または国
民は、常に人種差別問題と背中合わせになっているといっても過言では
ない。人間がホモサピエンスとして地球上で栄え始めてからというもの、
人類の歴史は戦争の歴史といえる。これは振り返れば恥ずべき悲しい事
ではあるが、紛れもない事実である。
 この事は、地球上すべての人が人種差別問題の関係者だと言える。こ
の問題をあえて稚拙な表現で表すならば、「イジメッ子は、いつイジメラ
レッ子になるか分からない」という事である。もちろんその逆も言える。
 この「時代の本質」は言い換えれば、人間性の本質をも映し出してい
たようにも感じる。人が人を物のように売り買いし、それを平気で行う
人、それを見て悪だと叫ぶ人。やがては南北戦争にまで発展していくわ
けだが、まさしく、人間性の本質が問われる時代だったのだと言える。
 このように今まさに人間性の本質を問われている国がある。それは、
私たちが住む「日本」である。
 「ハックルベリーフィンの冒険」というアメリカ文学を研究していく
うちに、人種差別問題、アメリカの歴史、植民地制度の成り立ちなどが
明確になっていったと同時に、鏡写しのように日本の姿が見えてきた。
いったいどういう事かというと、日本も今まさにその問題に直面してい
るという事が分かったからだ。
日中戦争(1937.7~45.8)が長期化・泥沼化する中で、日本は南京に
親日政権である汪兆銘政権を樹立(1940.3)したが支持が得られず、事
態の収拾に苦しんでいた。
 その頃、ヨーロッパではドイツが西部戦線の膠着状態を破ってデンマ
ーク・ノルウェーに侵入し(1940.4)、さらにオランダ・ベルギーに侵
入した(1940.5)。そして1940年6月にはパリを占領し、フランスを降
伏に追い込んだ。
 こうした情勢の中で、日本では南進論(フランス領インドシナ・オラ
ンダ領東インドのゴム・石油などの資源の獲得を目ざす南方進出政策)
が高まり、独・伊との提携の動きが再び活発になった。  
1940年9月23日、日本軍は援蒋ルート(重慶の蒋介石政権に対する
アメリカ・イギリスの援助ルート、フランス領インドシナ・雲南を経由
する仏印ルートとビルマルートの2つがあった)の遮断と南進を目的と
し、フランスの敗北に乗じてフランス領インドシナ北部(北部仏印)に
進駐した。そして4日後の9月27日には日独伊三国同盟に調印した。
 このフランス領インドシナ北部進駐と日独伊三国同盟の調印によって、
満州事変以来、特に日中戦争の勃発以来悪化していた日米関係は急速に
悪化した。
 すでにアメリカは、1939年7月に日本の中国侵略に抗議して日米通商
条約破棄を通告(翌年1月発効)していたので、石油・鉄鋼などの軍需
物資の多くをアメリカに依存していた日本は日米関係の悪化を防ぐ必要
に迫られていた。
 そのため、日本は1941年4月から駐米大使野村吉三郎とアメリカ国
務長官ハル(1871~1955)との間で日米交渉を開始した。しかし、アメ
リカは日本軍の中国からの撤兵と三国同盟からの脱退を要求し、日本軍
部が譲らず、日米交渉は難航した。
 日米交渉中に、日ソ中立条約(1941.4)を結んで北方の安全を確保し
た日本が、1941年7月28日にフランス領インドシナ南部(南部仏印)
に進駐すると、さらに態度を硬化させたアメリカは7月に在米日本資産
を凍結し、8月には石油など重要軍需物資の対日輸出を一切停止した。
 そしていわゆるABCDライン(Aはアメリカ、Bはイギリス、Cは中
国、Dはオランダを指す、対日包囲網を形成した4国の頭文字をとって
こう呼んだ)を形成して日本の南進政策に対抗したので、日本は完全に
孤立した。  
1941年9月6日、御前会議で「帝国国策推進要領」が決定され、日米交
渉でのアメリカ案を拒否し、10月上旬に至っても日本の要求貫徹の見込
みがないときには開戦を決意することとなった。10月18日に東条英機
内閣(1941.10~44.7)が成立し、対米交渉最終案を決定してアメリカ
と交渉した。
 アメリカは日本の最終案に対して、11月26日にいわゆる「ハル=ノ
ート」(アメリカ国務長官ハルが提示したアメリカ側の最終提案)で、中
国及びフランス領インドシナからの全面撤退・汪兆銘政権の否認・三国
同盟の破棄・満州事変以前の状態に戻すことを要求した。
 「ハル=ノート」は日本としては到底受け入れられるものでなかった
ので、12月1日に開かれた御前会議では対米英蘭開戦と開戦日12月8
日が決定され、1941年12月8日、日本軍はハワイ真珠湾(Parl Harbor)
のアメリカ太平洋艦隊を奇襲し、アメリカ・イギリスに宣戦を布告して
太平洋戦争(1941.12.8~1945.8.15)に突入した。
 日本は開戦と同時にマレー半島に上陸し、フィリピン・香港を攻撃し、
香港(1941.12)・マニラ(1942.1)・シンガポール(1942.2)を占領し、
この間グァム島(1941.12)・ウェーク島(1941.12)・ラバウル(1942.2)
などの太平洋諸島を攻略・占領した。
 さらに日本はビルマ作戦を開始してラングーンを占領する(1942.3)
一方で、豊富な石油資源を確保するために蘭印(オランダ領東インド)
作戦を開始し、ジャワ島に上陸してオランダ軍を降伏させた(1942.3)。
 緒戦に勝利した日本は、開戦以来約半年で東南アジアのほぼ全域と西
南太平洋の諸島を占領下においた。
 日本は「大東亜共栄圏」の建設を唱え、欧米諸国による植民地支配を
打破して日本を中心とする共栄圏を東アジアに樹立することを謳ったの
で、占領地では当初日本軍を欧米諸国からの解放軍として迎えるところ
もあった。しかし、日本の占領政策の目的は資源の確保と軍隊の自活に
あり、戦争遂行のために占領地域の人々の独立の要求を無視して占領地
域の資源と労働力を収奪したので各地で諸民族の反抗をまねくこととな
った。
 日本は占領下のフィリピン・インドネシア・ビルマに親日政権を樹立
させ、1943年11月に中華民国(汪兆銘政権)・満州国・タイ・フィリピ
ン・ビルマの首脳を東京に集めて大東亜会議を開き、大東亜共栄圏の結
束を誇示しようとした。
 日本の植民地であった朝鮮では、日中戦争の開始(1937.7)とともに
神社参拝が強制され、学校では「皇国臣民の誓詞」の斉唱などの「皇民
化」が進められた。また翌年の朝鮮教育令の改正によって日本語の常用
と朝鮮語禁止が強制された。1939年にはいわゆる「創氏改名」(朝鮮人
に日本式氏名を強制的に名乗らせる政策)が公布され、朝鮮人の強制連
行(1939~41は募集式、1942~43は官斡旋式、1944~45は徴用方式)
も始まった。
 日本語教育を中心とする「興亜教育」(皇民化教育)はインドネシアを
はじめとする東南アジアの占領地でも行われた。
 太平洋戦争の開始から約半年間は日本軍が優勢であったが、1942年6
月のミッドウェー海戦の敗北によって日本は制海・制空権を失い、以後
敗退への道をたどることになった。
 この結果太平洋戦争で敗戦国となった日本は東京裁判により、多くの
A級戦犯を出した。当然の事ながら、直接的戦争の首謀者であり、加害
者としてその戦争犯罪を問われたのである。本当に日本だけが悪かった
のか、考える必要がある。さらには現在まで続く日本人差別は不当では
ないのかも併せて考えなければならない。
 まず、今の日本が如何に不当な不平等条約の上に成り立っているかを
アメリカが認めなければいけない。過去の東京裁判でA級戦犯が死刑執
行された事もそうだが、日本は十分にその罪に対する罰を受けたという
事は国際的な事実だ。本来であれば、ここに罪があったのがどうなのか
も疑わしいところではあるが、なければもちろんの事、あったとしても
戦後50年たった今でも植民地のように日本を支配し、表面上では仲良
くしているが、その本質は敗戦国民への差別意識を拭いきれないでいる。
 アメリカ以外の国では、東京裁判が不当な裁判であったことを認める
国もいる。また、太平洋戦争下では欧米の植民地政策からの解放戦争だ
った事を、認めているアジアの国もある。
 こうした事実はアメリカが日本を不当に支配化においているという証
拠に他ならない。政治、経済はすべてアメリカの言いなりに近い状態と
言っても過言ではない。このような状態は国単位での奴隷と考えられは
しないだろうか。
 アメリカにおける黒人奴隷制度は黒人奴隷を労働力という財産として
考えていた。現在のアメリカは日本に対して同じような価値観を持って
いるとかいえないだろうか?経済大国日本はアメリカに対して莫大な債
権を持っている。しかし、それらが返済不要と言う事であれば、債権で
はなく財産といえるのではないだろうか。
 こういった考えから、現在のアメリカは日本を国単位の奴隷と見なし、
国単位の差別を計っているといえる。これは恐ろしくも人間の業のなせ
る悲しい歴史の繰り返しである。かつて、奴隷は財産であり、奴隷の子
もまた、生まれながらにして奴隷であった。私たち日本人はどうなので
あろうか。私たちは戦争を知らない世代であり、戦争の罪の責任の念も
ない。しかしながら、現状の日本とアメリカの関係はといえば、未だに
奴隷制度が続いたままだ。私たちはそれに気がつき、ビルのように猛然
と自由への冒険をすべきなのではないだろうか。

「自由という定義」

この物語の根底には人種差別問題というのが潜むが、表に表れている
最大のテーマは何か?「自由への冒険」という事である。ハックルベリ
ーフィンも黒人奴隷のビルも共通点は、「現状からの脱出」であり、それ
が「自由への冒険」と変貌していったという点である。彼らにとっての
「自由」とは何だったのかを、考える必要がある。また、私たちにおい
ての自由を考える上でも「自由」というもの自体を定義する必要がある。
 先日アメリカでは、民間航空機を乗っ取って世界貿易センタービルに
突っ込み、3000人を超える民間人が犠牲になるという、史上最悪の
悲惨なテロ事件が起きた。これに対して今アメリカは報復攻撃を続けて
いるが、本当に世界がこれからどうなるか全く見当がつかず、また日本
は未曾有の不況&失業率に見舞われており、先の見えない、何ともいわ
れなき不安に襲われる人も多いのではないだろうか。「自由」とはアメリ
カの象徴である。しかし「自由」について一番考えるべき国がアメリカ
なのである。
仏教でいう唯識思想を箇条書きにすると、以下のようになる。
1. ① 今我々が見ている世界は、縁起の法によってもたらされた空の世界
であり、本質は無い。
 ②また唯識や縁起の法によれば、自分という実体も無い。すなわち無
我である。
 ③唯識によれば、これら外の世界は無く、我々の心の世界が顕現した
ものである。従って、事の本質は我々の心の中にある。
 ④しかしながら、我々は外の世界に振り回されて生きており、それに
従って生ずる心の中は迷妄に覆われている。
 ⑤これらの迷妄(暗雲)を断ち切って、明鏡止水のごとく心を調律す
れば、真の世界(真如)が見えてきて悟り(涅槃)の世界に入る事
ができる。
 ⑥そのために、仏教には様様な宗門があり、たとえば浄土系、禅宗、
密教系等がある。
こうした事による仏教本来の目的は何なのだろうか。それは、悟りだろ
うか。では、悟ったらどうなるのか、という疑問が残るし、浄土系の宗
門では本来自力による悟りを否定している。私は、その答えは「本来の
自由を手に入れること」だと思います。
本来の自由とは、なんであろうか。鈴木大拙(※1)によれば、そも
そも、自由という言葉は仏教用語であり、「自に由る」(おのずからに、
よる)という意味であり、アメリカから来たfreedomという本来意味の
異なる言葉を日本語に訳す際に、この「自由」という言葉を当てはめた
経緯がある。
では、「自からに由る」とはどういう意味でしょうか。特に「おのずか
ら」というところに深い意味がある。「自ずから」は、自分から、という
意味ではない。仏教では、無我を説くからだ。では、「おのずから」とは、
一体どこからか。答えは真宗的に言えば、如来からという事になる。仏
教も宗教であるから、ここからは信仰の世界に入っていくので避ける事
にする。
今まで世界の哲学者が「自由」について思索してきたが、いくら思索
しても、人間には自由は無い、という結論になるようだ。鈴木大拙は、
長いアメリカ生活を経験しているが、アメリカに自由がある、というの
は人間が考えた法的な枠組みの中だけであって、本来の自由は禅によっ
てしか獲得できない、と断言している。
我々は本来の自由を失っているのからだ。先に①~④に示したように
我々は現在、外の世界にがんじがらめに縛られて、自由が無い状態にな
っている。それは、家庭、会社、財産、借金、社会的地位、名声といっ
た外の環境に縛られて、心の自由を失っているということだ。
大拙によれば、我々は本来自由なのですが、それを自覚していないの
だということだ。それに比べて猫や犬は自由の自覚なしに自由である。
仏教では、無我を説く。確かに、無我を会得すれば自由を手に入れるこ
とができる。何故なら、我々は我にこだわる事によって、これも出来な
い、あれも嫌だ、というように自分で自分の行動を制限しているからだ。
これを取っ払えば、どれほど行動範囲が広がるだろうか、これはなかな
か困難なことである。
また、外の世界のデキゴトは空である、と会得すれば、自分の境遇が
どうなろうが、何が起きようが、全くこだわる必要がなくなり、自由と
いえる。
親鸞は、他力思想でこれを説いた。親鸞の代表的な著書である歎異抄
の中には、「地獄は一定すみかぞかし」という、たとえ地獄に落ちても悔
いない、という章がある。これは、親鸞の教えを、「念仏を唱えれば地獄
に落ちない」と勘違いしている人がいるようだが、そうではなくて、信
心が確定していれば、たとえ地獄に落ちようが何の不安も無い、という
大安心を会得したことを言う。「念仏を唱えれば地獄に落ちない」という
事では、まだ「地獄に落ちるかも知れない」という不安が残るので大安
心とは言えないのだ。
親鸞の教えの真髄は、いつも弥陀から手が差し伸べられていて、我々
はそれを「はっし」といつでも掴めば掬い取ってくれる、という安心だと言う。こういう大安心を会得していれば、我々は外界で何が起きよう
と、いざと言うときには弥陀の救いがあるのだから、心の平静を保つこ
とが出来きる。従って、これも心の自由を会得していると言えるではな
いだろうか。
親鸞の思想については、また別の機会に詳しく勉強してみたいと思う。
以上のように、ともかく仏教的な信心を会得すれば、すなわち心の自由
を手に入れることになるのである。こうなれば、ビルに航空機が突っ込
もうが、戦争になろうが、不況になろうが、死のうが生きようが、心は
自由だ。ここまで述べた自由は厳密に言えば「精神的な自由」の事で
ある。
さらに、別の自由の定義を考えることにする。奴隷とは家畜や物と同
じ財である。奴隷とは、人格を全く否定され、自由も幸福追求権も完全
に奪われ、家畜や物と同じように所有され譲渡・売買され、所有者の利
益のため、所有者の意のままに労働を強制される人々のことである。
奴隷が搾取から逃れることができないのは、結局のところ暴力によっ
て抵抗を封じられているからである。この暴力によって抵抗を封じられ
てしまうという点に着目して考えた場合、精神的自由は暴力によって侵
害する事はできないので、彼らは精神的には自由になる事は可能だが、
抵抗できないという事は肉体的に拘束されている事を意味する。そして
彼らがある種の自由を奪われているとすれば、それは精神的自由ではな
く、もう一つの自由、つまり「肉体的な自由」である。
 よって、自由という定義については「精神的な自由」と「肉体的な自
由」の二つあるということがいえる。


「現代においての自由とは」

私たちが今なお、「ハックルベリーフィンの冒険」を読んで興奮を覚え
るのは、私たちが現代社会の中で自由を奪われ、冒険したくてもできな
いという現状に甘んじているからだと考えられる。ハックルベリーフィ
ンの時代の自由と現代においての自由とは何が違うのか?奴隷制度もな
い世の中で育っている私たちは本当に奴隷ではないのか?様々な事柄を
考察してみる事にする。
前章で定義付けしたように、時代の違いはそのまま自由という定義の
違いとして区別できる。いうまでもないが、黒人奴隷たちは「肉体的な
自由」を奪われ、現代の私たちはというと「精神的な自由」を奪われて
いるように思える。
 肉体的には自由だが、その精神は常に何かに縛られている。学校、会
社、立場、様々なしがらみが現代人から自由を奪う。何のためにやって
いるのか分からない事も多々ある。そして現代人は何かに追われるよう
に日々を過ごす。ハックルベリーフィンがいた時代と比較すると、現代
ははるかに便利に豊かになっている。しかし、それはあくまでも物質的
な観点である。物質的に豊かで、肉体的に自由。それはそれで大事な事
だし、素晴らしいことでもある。しかしながら、私たちはその代償とし
て精神の自由を奪われてしまった。いったい誰に奪われてしまったのだ
ろうか。


「ハックルベリーフィンの冒険」から受け取る希望と絶望

 ハックルベリーフィンに潜む様々な要素は、現代社会と相似形をなし、
いたるところで、私たちに訴えかける。自由を奪われてしまった状態の
私たちに、自分の力で自由を切り開く希望や夢を与えてくれる文学作品
であることは間違いない。だが、それと同時に、ちっぽけな人間一人で
は何も変わらないという現実をも目の当たりにさせられてしまうのも事
実だ。
 
「結論」

現代にも人種差別は続いていて、日本人もまた例外ではない。その事実
を私たちは受け止め、立ち向かわなければいけない。



参考文献目録        「マークトウェインが生きた時代背景」


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