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ドルフロ『慢性虚脱』感想──創造力とは何か

 ドールズフロントラインの大型イベントシナリオ『慢性虚脱』の感想です。
 ネタバレを含みます。


 やたら長い回想パート、しかも記憶が改竄されているからどこまでほんとうなのかよくわからないという非常にトリッキーな話でいろいろ困惑させられたが、話としてはあるべきところに収まったように思う。アンジェの話というよりは、パラデウス側の内在論理が見えてきた話という印象が強い。
 また、ドルフロがずっと追求してきた「人間とは何か?」「戦術人形と人間の違いは何か?」といった疑問がパラデウスの悪魔的な実験を通じてさらに深められ、テーマの核心部分に近づいてきている。ストーリーの進みは遅いものの、内容的にはそれなりに考えさせられるところがあった。

 今回のシナリオで印象的だったことのひとつは、グレイの正体というか、経歴が明らかにされたことだ。
 「慢性虚脱」では、グレイ(ネイト)がグレイ・ブラックウェル博士(人間)を元に作られ、ある時期を境にネイトが人間に成り代わった(入れ替わった)ことが示されている。
 パラデウス(というかマイトナー)がグレイの入れ替えを実行したのは、グレイ(人間)の能力を利用したかったのに懐柔できなかったからだと考えられる。こうして生み出された上位ネイト・グレイは、優れた能力を持つだけの傀儡であり、その個性はもっぱら能力によってのみ担保されている。実際に、グレイ(ネイト)は自分のことを「(同一の)ロット内で最も数値の高い異性体」だと述べている。

「静止点」イベントより

 その存在の個性や存在意義が「能力」によってのみ評価されるのなら、その能力が失われればそれは否定されてしまう。グレイ(ネイト)はパラデウスというシステムの中で都合よく利用されるだけの駒にすぎず、最終的には使い捨てられてしまう。

 一方、すでにこの世にいないグレイ(人間)は福音アクシスに自分の記憶データを残し、それを通じて現在のアンジェと対話を重ねる。
 福音アクシスの「氷山」の中でグレイとアンジェが交わす会話はこのイベントのなかで最も重要な部分だろう。人間の記憶や人格をデータとして保管することができるとしたら、それを使って肉体を乗り換え続けることで擬似的な不死を得られるのか。そんな問いかけに対し、グレイは「永遠の命は得られない」と断言する。

ここはかなり本質の話をしている

 まず、グレイは記憶について語る。10歳の自分と40歳の自分の記憶データがあるとして、それらをそれぞれ別の肉体にダウンロードさせたらどうなるか。おそらく別の動きをするだろう。その場合、「本当の自分」なるものはどちらなのか。
 人間という存在は連続性によって規定できる。10歳の自分と40歳の自分は細胞レベルでも、外見レベルでも、行動規範においても違っている。しかしそれらが同一の存在として扱われるのは、そこに連続性があるからだ
 一方、デジタルデータには連続性がない。樹木の切株には年輪が刻まれているが、年輪から一度切断した木を元通りにできるわけではない。切株にすぎない記憶データから「本当の自分」を復元することもできない。ここまでは理解しやすい。

 グレイはさらに「人間には唯一性があり、本物の創造力がある」という。これはどういうことだろうか。
 人間をデジタルにコピーすることができない以上、人間には唯一性がある。では唯一性があるものに「本物の創造力」があるというのはどういうことか。唯一性があるからこそ創造力があるのか。それとも創造力があるからこそ唯一性があるといえるのか。
 そもそも創造とはなんだろうか。これについてグレイは「27番目のアルファベットを作ること」だという。
 気をつけないといけないのはこれは一種の譬喩だということだ。生成AIに「27番目のアルファベットを作って」という大喜利みたいな質問を投げかければ、すぐに作ってくれるだろう。でも問題はそういう話ではない。もしそんなのが「創造力」だとすれば、ずいぶんと陳腐だ。
 ここからは個人的な見解だが、「本物の創造力」というのは自分とは別の存在になる能力ではないだろうか。
 10代の自分と40代の自分はほとんど別の存在といっても良いくらい違ってしまっている。ただそこに連続性があるという事実のみが両者を同一の存在として位置づけている。人間は別の存在になることができる。しかし別の存在になっても連続性を失わずにいることができる。何度上書き保存を繰り返しても、若かったころの自分が死ぬわけではない。「人間」は27番目のアルファベットを作り続けてもなお同一の連続した存在であり続けることができる。
 つまり、自分とは別の存在に変化しながらも、なお連続性を失わずにいられることこそが人間の「唯一性」であり、「本物の創造力」なのではないか。

 メンタルにバックアップを取っていればいちおう全壊した戦術人形でも「復活」できるという体になっているドルフロの世界で、こうしたテーマを正面から扱っているのはなかなか凄まじいことだ。バックアップによって生み出される「意識」には唯一性がなく、唯一性がないものに創造性は宿らない。
 そして唯一性や創造性のないものの存在意義は、能力によって評価せざるをえない。工業製品はその製品がつくられた「意味」によって価値を与えられる。切れないナイフには価値がないし、読めない本は捨てられる。パラデウスのネイトたちの悲哀はここにある。
 しかし、そうした唯一性や創造性のない存在を使役しているのはグリフィンの指揮官も同じだ。指揮官とウィリアムを分かつものはなんだろう。
 ひとつ考えられるのは、戦術人形に対する愛着だろうか。人間は、唯一性や創造性のないものに対しても、能力以上の価値を与えることができる。それが「愛着」だ。アンジェ(アンナ)は読めない本と撃てない銃を持ち歩いていた。それは、彼女がそれらに愛着を持っているからだ。創造力を持つ人間は、創造力のない「モノ」に意味をもたせることができる。
 指揮官は戦術人形に愛着を持ち、意味を与えることでかれらを単なる「モノ」以上のものにすることができる。融合勢力となった鉄血勢が妙に活き活きしているのも、単にホワイト職場に転職したというだけの話ではなくて、愛着の対象となったからかもしれない。

 RPK-16は人間になるため、アンジェの肉体を奪うという行動に出る。これはまさに、自分とは別の存在になり代わり、それでもなお自分としての連続性を保とうとすることで、唯一性と創造力を兼ね備えた「人間」になろうとする行為にほかならない。

RPK-16はグレイの成り代わり(おそらくクローンを使っている)よりもさらに踏み込んで、アンジェの肉体そのものを奪っているんだよな

 グレイのいうとおりなら、RPK-16が人間になることはぜったいに不可能だ。しかし、もしなんらかのかたちで唯一性と創造力を手にすることができるのなら、それは限りなく人間に近い存在といえるはずだ。そんな日がはたして来るのか。今後のシナリオではそのあたりに注目したい。

↑ストルガツキーの『路傍のピクニック(原題)』こと『ストーカー』。未読なので近いうちに読みたい。



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