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大事に扱われた人間は、自分も人も大事にできる

<長文、かつ、これ子育てlogなのか?という文章ですが。>

大学で非常勤講師をしています。医療者を育てるためのカリキュラムの一端を担っています。

医療者というのは様々な立場に自分を置く仕事だと思っていて、患者さんに共感したり、家族と一緒に生き方を考えたり、治療に関わる立場として客観的に目の前のことを評価したり、そういうペルソナの入れ替えが大事、と思っています。その時の相手によって同じことを違う言葉で・言い回しで伝える技術も必要です。気持ちだけではなくて、態度や言葉、そして知識や技術も、使いこなす必要がある、と思うのです。

そういったペルソナの入れ替えは、感情的・主観的な物事の捉え方しかできない人には難しい、と思っています。自分にもその一面が強くあることを理解していますが(誰でもそういう一面はあるものです)、その一面について自分を考察して、常に自分にはそのバイアスがかかっていることを承知の上で、出来るだけ理性的・客観的な目を持つ、ということが大切なのです。(一方、理性的・客観的であることだけが前面に出ている医療者は、概して「冷たい」と言われます。これもまた、ペルソナの入れ替えができていない状態のひとつと考えています。)

誰かの人生に関わるとき、まずは、どのくらい共感できるか。
そしてその共感をどのくらい排除して理性を働かせることができるか。

今年前半、学生さんたちと対峙していて、ふと、思いました。学生時代に育てるべきは、まずは共感の心だよなあ・・と。もちろん、国家試験では知識を問われることになりますし、学生の本分は学業であることに異論はひとつもないのですが、それ以前に、医療が人間と人間の間の行為であることを考えると、一方通行ではないコミュニケーションが必ず必要になってくるわけで、それには主観と客観、感情と理性の使い分けを学ぶべき、と思ったのです。そしてその大前提には、主観を持ち合わせること、感情を持ち合わせること、自分がどのようなときにどのような主観と感情を持ち合わせる可能性があるのか、ということを理解する段階が必要だと思いました。

そんな思いから、授業評価の半分を占めるように設定した課題提出のテーマは、彼らが彼らの感情に問いかけることができるものにしました。どう思うか?何を感じるか?個人として、医療者の立場として、何を見たか?そういう問いかけの中で、答えのない「医療者としての自分」というペルソナを育てていって欲しいと思いました。どんな知識と技術を得ても、それを「コミュニケーションの一部」として患者さんに伝えられなければ、それは医療者の自己満足に過ぎません。伝わってこそ、なんぼ。なのです。

会話の相手が自分に対して何かを「伝えよう」としているとき、人間は、相手がどのくらい自分に「共感してくれているか」を自然に感じ取っていると思います。それが過剰でも、物足りなくても、コミュニケーションはうまくいかないと思います。気心知れた相手ならまだしも、初見の医療者が患者さんに対して「共感」を伝える、というのは、なかなか難しいことなのです。もしかしたら技術なのかもしれませんが、技術なのだとしたら余計に、「本来の共感はこうあるべきだ」がわかっていければうまく演じられないのではないでしょうか。

学生さんたちの話に戻しますと、今回、彼らの「気持ち」「考え」を聞いていく中で、気づいたことがあります。彼らの「気持ち」「考え」を聞く前に、わたし自身の「気持ち」「考え」を彼らに伝えることが、とても重要なのだということです。その上で、正解のないことについて、彼らの意見を聞く。そして彼らには十分な時間を提供する。その場で答えられなくてもいいんです。(答えてもいいけれど。)ゆっくり考えたいと、彼ら自身が思えば、彼らは時間をかけて回答するし、こう思う!がガツンと瞬時に思いつけば、彼らはその場で気持ちを出すのです。

それから、彼らの気持ちや考えを「受け取りました!」と、可能な限り伝えることも大切だと思いました。当たり前ですが、ぶつけた気持ちには、返答が欲しい。90名を超える授業でしたが、全員の意見を読み、いくつかをピックアップして、それについてわたし自身の感想をできるだけ述べる、そういう丁寧な時間の使い方の重要さを学びました。

授業には時間制限があるので、必要な知識や技術を伝えることが先行すると、ギュウギュウピッタピタの90分、になりがちです。でもそれは医療現場でも同じで、限られた時間に必要な物事を済ますには、余計なことは排除して効率性を求めなければいけない場面が多いように思います。

けれども、学ぶのも、治療の日々を過ごすのも、教員や医療者ではなく「当事者」です。当事者が、目の前の課題に対して理性的かつ客観的かつ前向きな態度を示すには、まずは当事者の感情的・主観的・後ろ向きになってしまいがちな部分が「受け容れられる」必要があると思います。

だから結局、こちらが感情と主観を大事に扱うこと、自分自身の感情と主観、相手(学生さんや患者さん)の感情と主観を大切にすること、が、最終的に理性的・客観的な判断と行動を導くのではないでしょうか。

よく言われることかもしれませんが、人は、大切に扱われることで、人を大切に扱う術を学ぶのだと思います。不器用でも未熟でもなんでも、その人なりの本気で。

というわけで今日も、子どもを全身全霊で大切に扱いたいと思います。

<追記>
今日読んだ、試験ボロボロだった学生さんたちの追試レポート、感動しました。ありがとうございました。ひとつひとつ感想お返ししました。(誰もこれ読んでないと思うけど。)