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突き抜けた個性と聖性と傷と癒しの話。

(タイトルの付け方がいつもわからない))))

マイケル・ジャクソンと、
フレディ・マーキュリーと
ゴッホと岡本太郎と棟方志功と
エレカシの宮本先生とねぶたが
私の中では同じ宝箱に入っている。
その上にシャガールと永山裕子御大もそっとのせて、ガウディみたいな箱の蓋をしめる。

もしかしたらその箱を抱えてるのはジーザスかもしれない。イエスさまはめちゃくちゃロックだなと思う

(もはやご存命なのは宮本先生と永山裕子御大だけだから、生で会う機会逃すまじ)

そして、少しでもそのように在りたいものだなあ、と思いながら またしてもあっという間に1年が過ぎてしまう。



強すぎる個性、強すぎる自我は、
丸腰で本気で突き詰めたら、ぐるりとひっくり返って「ひとつ」ところに、神聖なところに、開かれて 使われるという見本のような箱。

たとえば
「サレンダー」「手放す」という言葉は、
自我を捨てなくてはいけないような
小さくおとなしくしてなきゃならないような
私が消えてしまうような
コントロールを失うような
そんな感じで
強い抵抗を生むのが普通だけど

でも、
自分で思う自分など、
作り上げられた幻で
どれだけ自由に生きてるつもりであっても、
がんじがらめの檻の中なのだ、
手放して神に降参するということは、従順な羊になることでは全然無い。

むしろ真逆で、自分で自分を閉じ込めた檻を 体当たりでぶち壊していく作業に他ならない。

神に委ねてしまったら檻から出て、
自分のもつ個性、持って生まれた資質、設定を最大限、無制限に開放することになる。

最高の自分になってしまう。
自由になってしまう。

私たちはみんなそれが恐いのだ。
人のせいにして 何かのせいにして
檻に閉じこもってた方がずっと楽なことを 無意識に嗅ぎとっているのだ。


檻の中の自我は 収縮するエネルギーで
それは分離を強化する。
「俺とお前は違う、俺は皆とは違う」が強まるけど、それは本当は、檻の紹介。あなたの個性じゃない、自由から逃げる口実。

本当に個であることは、
ひらかれていて神々しい。




さっきエレカシのライブを観てて、
先生のまっすぐな稀有な声と
全力で転げまわって頭を掻きむしり
目をひんむいてうるうる泣いて
頬を紅潮させて叫ぶ姿をみていたら

心にザクザク刺さって
ずっと抜けなかった刃が、
なんだかわからんけど、抜けたきがした。

歌ってたのは
土臭い歌詞の
なんなら奴隷めって叫ばれとるんだけども

言葉じゃない熱がとどく。

そういうことだとおもう。

どっかで聞いたような綺麗な言葉やら
上っ面の小賢しさなんて
底が浅くてすぐバレる。

丸裸の音は神々しく、
有無を言わせず圧倒的で
共振すると傷が癒されて、亀裂が消えていく。

人が神と交わるために残された最後の手段は芸術だというけど 本当にそうだと思う。

檻から出るには「私」ひとりでは出来ない

「これが檻だよ」と教えてくれて
体当たりさせてくれて

檻が破壊される過程を私たちは「痛み」や「傷つき」と感じるから

涙が枯れて癒されるまで
共にいてくれる聖なるものが、真理が、
どうしたって必要になるのだ。

傷の中に神への道がある。

そして、傷つこうが痛かろうが
丸裸でそこに立つ人がいたら、
その人は 存在自体が芸術だろう。


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