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美とは何か?

きれいと美しいの違い

noteにきれいと美しいの違いは?という問いがあったので少し考えてみました。
漠然と「きれい」は外面的なもの、「美しい」は人の内面的なものも含むと思っていました。

改めて漢字の意味を調べてみると、白川静の字統では「美」の意味として
人の徳行や自然風物の美しいことをいう。
と出ていました。
一方、綺麗の方は、衣服の模様があって華やかで美しい。見苦しくない。人の容姿が美しい。といった意味のようです。

美が人の内面的な徳や自然の美を指すのであれば、美というのは人の内側から出てくるもの、人格のようなものであり、自然美というのは本来のままで人工の加わらない美ということができそうです。

綺麗のほうは着飾って美しい、容姿が美しいということなので、外面的に美しいこと。また、人工的に加えたり、取り除いたりしてきれいにするという意味を含んでいます。

このような意味を考えるときれいと美しいの違いがはっきりしてきます。きれいというのがもともとそれが持っていたものではなく、後から人工的に作られたものということです。つまりきれいになった。意識してきれいになることです。ですからきれいでなくてもきれいになれる。女性であればお化粧すればきれいにはなれます。

美しいのほうは自ずから然り、つまり本質的な美しさということででした。美しいとは、それがもともとそれが持っていたものなので、あとから作り変えることはできません。自然とできるものです。

美しいいきもの

私は30前後のころ一人でよく山登りや散策をしていました。ある秋の日、福岡県にある鱒淵ダムの周りを歩いていました。その時、ガードレールの上に1頭のサルが座ってじっとこちらを見ていました。最初は動揺しました。数メートルの距離に野生の大きな猿がいるのです。目と目が合ってしばらくにらめっこが続きました。でも次第にこのサルが美しく感じられました。何か風格があってりりしいサルをとても美しいと感じました。そしてカメラを出そうとするとゆっくり立ち去ってゆきました。

サルは何か美しくしようとしたのではありません。あるがままの姿で美しいわけです。生き物はみんなそうです。春先庭にやってくるメジロも、夜更けに裏山で鳴くフクロウの声も、夏に田んぼに通る一本道もみんなあるがままの姿で美しく感じられます。ただし、人間だけは意識的にきれいになろうとします。そして見た目のきれいさに心を動かされてしまいます。

元二の安西に使ひするを送る

この漢詩は、王維が友人であった元二との別れを詠んだもので、教科書にも出てくる有名な漢詩です。先日、ある書道店で全壊紙に書いで裏打ちに出されたものが置いてありました。人に書いてもらったものを額装するようです。でもなんとなく違和感があります。店の人に、
これって墨が薄いというか透ってないよね。
と聞いたら、それかな用の紙に書いてあるということでした。道理で。
書体は行書で同じ大きさで教科書的にきれいに、上手に書いてありました。お手本通りという印象です。でも、美しいという感じがしない。これが違和感の正体でした。そのとき、度を越してきれいに書くとこうなるのかなと実感しました。

世の中には、美文字というのがあります。それには美という漢字が使われていますが、その目的とするところはきれいに、上手に書くことです。悪筆をなおすためにそれを習うことはよいことです。でも書にはあまり必要ありません。書の目的にきれいに上手に書こうなどということはありません。どちらかというと自分らしく表現しようということです。

美とは何かについては哲学的な問いであって難しい問題です。今回はそのさわりの部分について考えてみました。美についてはここ数年で得た理解ですからまだまだ未熟なものです。学びはまだまだ続きます。学びはそのプロセスが大事だと考えます。考え続けることでハッと気づき、少しずつ前に進む。好きな言葉に百尺竿頭に一歩を進むというのがあります。

最後までお付き合いいただきありがとうございます。お気づきの点がありましたらコメントよろしくお願いいたします。





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