見出し画像

誕生日🎂

実は昨日、誕生日でした。

他の人の誕生日を祝うのって
凄く喜ばせたい!ってな思いで、サプライズとか
めっちゃ仕込んだり、
「今日、実は誕生日で…」
って遠慮がちにいう人達にも

「何だよ、みずくさいなぁ。」
「せっかくの誕生日、ちゃんと教えてよ(b^▽゜)」
って、伝えたりもするんだけど
自分の誕生日に関しては、スゲー苦手
というか、あまり好きになれなかった。

それこそ毎日、自分観察をやっていて
出来事に対しての、
自分の思考や感情の動きを観ていて
その都度、新しい気付きや
自分発見があり、小さくも大きくも
歓喜をかんじるんだけど、
自分の誕生日に関しては“自分”って概念が
思いっきり浮き出て、そして
自分が望んでいない現実に対して
”…ほらね。”
って無意識のエンジンが動き出すもんで
自分の誕生日は、好きにはなれなかった。

無意識のエンジンっていうのは、
最近で言うアダルトチルドレンとか
インナーチャイルドって表現があるけど、
ざっくり言うと、無意識に
”どうせ自分って、○○な人間なんだ…”
って、思い込んでしまっている
自分への初期設定の事。

簡単に言うと、幼少の頃に未熟な考えのまま
世界を解釈してしまい、それがそのまま
大人になっても続いている状態

目の前で起きている出来事をマイナスに捉えてしまい
≪自分は、○○な人間なんだなぁ≫って
アイデンティティを設定してしまう。

僕の場合、それが
”何を選んでも、勿論選ばなくても、
どのみち独りぼっちになってしまう自分”

この無意識のエンジンがあるから
何をしている時にも
独りの孤独感を感じてしまい
そしてなかなか拭い切れない
っていう事が起きる

【過去の出来事と現在を繋げて観る癖】
人は過去に経験した出来事と、同じような出来事を
目の当たりにすると
”これって、こうでしょ!”
って瞬時に解釈が出ていて、
その解釈の眼鏡を掛けたまま、現在の出来事を観ている状態
だからずっと、
”どうせ、○○でしょ?知ってるよ!”
の状態で、出来事と向き合っている。

今回で言うと、”自分の誕生日”

過去に経験した誕生日の出来事で
自分が『おめでとう』の言葉を
欲しい人から貰えない。

周りのみんなの誕生日は
順番にサプライズでお祝いしていたから
自分にもサプライズをして貰えるものだと
期待していたけど、何もなかった
お祝いの言葉すらなかった
…などなどの出来事に加え

”自ら、自分の誕生日を
公表するって、カマチョの極みじゃん!”
”自分の誕生日を自分で皆に知らせるなんてダサい”
って風潮があった

一時期は、ずっとそんな調子で
”ほら、やっぱりね”
”やっぱり、自分だけ特別独りぼっちじゃん”
が、続き自分の誕生日に対する期待感も薄れ
祝ってもらう事への諦めが出てきて
いつしか自分の誕生日が嫌いになっていた

”お祝いして貰えるハズ”
”みんなが祝してくれるハズ”
って期待があるから、期待しなきゃいいんだ…
むしろ、誕生日なんて自分は無いんだ…
くらいな感じにしていた

でも、ただの思い込みだった。

周りの人達が、
お祝いの言葉をくれない理由はそれぞれ
でも、その中には、
誕生日の日を知らない人も実はいる

さっき書いた、
”自分の誕生日を自分で言うなんてダサい”
つまり、
”これって、こうだよね!”
っていう、観点が固定してしまっている事と

”自分なんてどうせ、独りぼっちなんだ”
ってアイデンティティが

”素直に自分の誕生日を知らせない”
って行動に転換され
結果として、自分が望まない現実
『誕生日だけど、どうせ誰も言わってくれない』
が立ち上がっていた。

この仕組みを、
同じく悩んでいる人達に伝えたいね。

何事にもそうだけど
改めて、思うのは
自分の気持ちに素直になる事
そして周りに、どう思われるか?
ってところにエネルギーを使うくらいなら
伝えたい人に、素直に自分の思いや気持ち
可能であれば、そう思った背景も
伝える事にエネルギーを注いだ方がいい

傷付きたくないのも、わかる!
でも、
”どうせ自分なんて…”
って考え込んだり、身構えたりする暇があるんなら
『素直』を掲げて生きた方がいい。

そんなわけで、昨日は
母親に”ありがとう”を伝えたくなって
勢いで手紙を書き、渡してきました。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?