死の夢

最近、なんとも言えない妙な夢を見た。

それはほとんど”幽体離脱”のようなもので、自分の”心”とか”生命”みたいなものが完全に自分の身体を離れていって、残されたその”自分の身体”をただ見ている夢。
ただ、その時僕が見ていたものは、はっきりとした身体ではなくて、とても抽象的なものだった。目を凝らしてみてもはっきりは見えなかった。
黒い、というより光が無くてただその物体を見れなかっただけかもしれない。ぼんやりと見えるそれは捉えようのない歪(いびつ)な形をしていて、常に形を変化させていた。形は少し変わっていくのだけれど、第一印象としては、廃工場に捨てられた大きな”鉄くず”のようで、ただただ無味乾燥なだけだった。
自分自身の残骸を完全に客観視している様なその夢は、僕の人生のこれまでと、これからをまざまざと見せつけられているようで、少し恐かった。


”夢”というのは不思議なもので、夏目漱石も『夢十夜』という「こんな夢を見た…」という出だしで有名な小説を書いている。

『死の夢』とタイトルづけたのは、僕が見た夢が”死”を示すものだったのかどうかはわからないけど、僕が敬愛するヴァイオリニストの庄司紗矢香さんがまだ十代の頃、ショスタコーヴィチのヴァイオリン協奏曲第1番の勉強中にまさしく”自分自身が死ぬ夢”を見たということから着想を得た。
当時の彼女が語るには、その時の夢は死ぬ寸前の最後の一息まで覚えているらしい。そして、その瞬間というものは決して恐いものではなくて、なにか全てから解放されるような感覚だったという。
ショスタコーヴィチが抱いていた死への恐怖とか政治への不安とか、十代後半の女の子とは思えないほど音楽を通して人生を、生きるということをかなり深いところまで見つめていて、僕としてはそのほうがちょっとしたホラー。

”死”といえば、話題ほやほやの『100日後に死ぬワニ』
つい先日”100日目”を迎えて更に話題沸騰で一種の社会現象レベルにまでなっているが、僕はこの作品がツイッターで連載中のとき、存在は知っていたけどあまり意識はしていなかった。
メメント・モリ(ラテン語からで、自分がいつか必ず死ぬということを忘れるなということを訴えている芸術分野の一つ)として確かに秀逸だったのかなと思う。
そして毎日毎日、報道されているウイルス。

思えば、僕は今年1月、ちょうど2か月ほど前に庄司紗矢香さんのショスタコーヴィチ:ヴァイオリン協奏曲第1番を始めて生で聴いたところだった。

庄司さんのショスタコーヴィチから渦が巻き起こって、今を取り巻く社会現象から、あんな奇妙な夢を見たんだろうか。

人間の生命とは不思議なもので、自分のためだけに生きて、自分のためだけに死ぬというほど人間は強くない

三島由紀夫が死の四年前にそう語っている動画も一昨日に偶然みて、とにかく最近これほど”死”に関するものがつきまとってしまう。
僕のいまの年齢にも少し関係があるんだろうか(何歳かはナイショ)。

時は常に過ぎ去り、人は老い、死んでいく。
当たり前のことなのだが、自分自身を完全に客観視することがほぼ不可能に近いように、それを常に体感して生きていくというのは極めて難しい。

自分の”生”をもう少しなんとかできないものかと悩む若造ここにあり。

あ、3月20日から公開されてる三島由紀夫を東大全共闘の映画、なんとか平日に観に行けないかなー。土日でもかなり少ないだろうけど…。


皆さんもショスタコーヴィチの『ヴァイオリン協奏曲第1番』、聴いてみてくださいね。おやすみなさい。

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