三浦しをん「愛なき世界」と遺伝学の話

三浦しをん「愛なき世界」を読んだ。定食屋で働く青年藤丸くんとシロイヌナズナの研究者、本村さんの物語である。物語そのものの出来や語り口の読みやすさもさることながら、大学院における研究や研究室に対する解像度が異常に高く、研究者としても楽しく読むことができた。愛という抽象的な概念に対して、主に藤丸くんと本村さんのそれぞれの愛の形を中心に、いろいろな関係性の愛を描いていく。ことの顛末についてあれこれ言うつもりはないが、個人的にはとても良い読了感であった。

ところで物語内で登場する本村さんの遺伝学実験はまぁだいたいが納得できるのだけれど、どうしても気になることがひとつあった。本村さんはシロイヌナズナの変異体を掛け合わせ、四重変異体を作ろうと四苦八苦する。本村さんは四重ヘテロどうしを掛け合わせ、次世代の1200本のシロイヌナズナから1/256の確率で現れると期待される四重変異体を単離しようと決意する(左図)。メンデルの独立の法則から(¼)^4=1/256というのは分かりやすい話であり、そして恐ろしいまでの株を観察しつづける道を選ぶ。研究室の仲間や指導教員もこれを指示して応援する。物語の中心軸として、本村さんの研究にかける情熱を端的に表す実験である。

四重変異体を単離するための交配手順

シロイヌナズナを交配したことはない外野の意見なのだけれど、僕なら戻し交配 (back cross) をする。本村さんは四重ヘテロを作るにあたって、二つずつ遺伝子のペアを作りダブルホモ系統をつくっている。そのどちらかに四重ヘテロを戻し交配すれば、1世代増える代わりに1/16の選択を2度行うだけで四重変異体が取れる(右図)。それぞれの世代でせいぜい100本程度広げれば順当に単離できるアプローチであり、最終の掛け合わせからそれなりの数の四重変異体が取れる算段なのですぐに表現型の解析ができる。1/256に賭けて四重変異体を取ったところでもう1世代かけて増やさないとサンプルにならない以上、世代数は同じなのである。おしべを抜くとかそういう交配のための手間はかかるけれど、堅実なのは戻し交配する方であろう。

実験には比較群=コントロールが必要であり、できるだけ同じ条件で生育することが求められる。遺伝子Dの効果を示したいならaabbccDDがコントロールとなる。1200個体の中から四重変異体に加えて三重変異体を選ぶ労力を考えると途方もない。一応、本村さんはマーカーを使って全個体の確認はしていた。上記の戻し交配ではaabbccDDがaabbccddと同数収穫される上、親の遺伝型も生育環境も揃っているので、その点についても利がある。そういえば劇中後半で行われるgenotyping PCRでもコントロールがカウントされていなかった。PCRが正しくかかっているというポジコンと、得られたバンドがゲノムに由来することを証明するネガコンの二つを並べなければならないので、48ではなく46がキリのいいサンプル数なのである。ここはまわりもちゃんと指導してあげてほしい。あと、できればプライマーのチェックは四重ヘテロができた時にやってしまうのをおすすめする。コントロールに最適な遺伝子型なので。

ちなみにPCRするための機械をPCRと呼ぶのはいただけない。そう呼ぶ人を何人か見たことはあるけれど、あれにはサーマルサイクラーという正しい名前がある。

気になって調べたらシロイヌナズナの染色体は5対らしい。本村さんが取り組んでいたのは連鎖しない4遺伝子座。5対しかない染色体のうち4対に見事に分かれているのである。もちろん連鎖してしまっては計算が面倒なので物語の都合もあるが、それにしても運がいい。ここでメンデル御大のことを思い出さずにはいられない。エンドウマメの染色体は7対しかなく、メンデルがエンドウマメの研究で使った7つの形質はすべて独立していた(実際のところいくつかは同染色体にあって、染色体の両端に位置していたおかげで組替え値が高かったらしい)。ちょっと出来過ぎな感がある選択なので100年以上も議論の対象になっているのだけれど、幸運に恵まれたが故の発見と思うのもまた一興なエピソードである。メンデルも、かの法則を見出すのにものすごい数のサンプルをとったという。実際、何千というサンプルを使わないと偶然性の作用が大きくなって、次世代の遺伝型は綺麗なメンデル則を示さないことがある。マウスみたいな産仔数の少ない生き物(哺乳類にしては多いんだけれども)なんかを扱っていると、生まれた兄弟が全員オスなんてこともある。実験の都合上メスが欲しいときほどよくある。戻し交配を選ばなかったおかげで1000を超えるサンプルを経て、本村さんは遺伝法則の本質を垣間見る。本村さんがメンデルのオマージュとして描かれているというのは深読みのしすぎだろうが、彼女の今後の研究が明るいことを祈るばかりである。


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