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【舞台感想】夢を見たの/星組宝塚バウホール公演 『My Last Joke』

10月25日と26日に宝塚バウホールにて星組公演「My Last Joke -虚構に生きる-」を見てきました。

天飛華音さんの初主演公演で主人公はエドガー・アラン・ポー、詩ちづるさんが彼の妻となるヒロインのヴァージニアを演じていました。
作演出は竹田悠一郎先生。場面ごとの登場人物たちの有様と言葉を追いながら読み解いていくような宝塚バウホールだからこそできる作品で、脚本は役者を得てはじめて命を宿すのだということがわかる公演でした。
手島恭子先生作曲の憂いを帯びた美しい音楽が舞台を包み込み物語世界に刹那の煌めきをつくり出していました。

肉親の縁に薄く愛着に問題を抱え誰とも信頼関係を築けぬまま、亡くなった母を理想化している青年の物語。
天飛さん演じるエドガー・アラン・ポーの印象は幼児性が抜けきれない癇癪持ち。
人としてしてはならないルールををすでに36破っています。とミーマイのディーン公爵夫人マリアの声が聞こえてきました。

相手に罪悪感を抱かせて行動や考えを支配してはいけません。
「離して」と言われたら離さなくてはいけません。
反論できないからといって癇癪を起こして怒鳴ってはいけません。
自死を示唆して恐喝してはいけません。
病に冒され心細がる妻を独りで放っておいてはいけません・・

独善的でどうしようもない人間でした。エドガー・アラン・ポーという人は。

エドガーに取り憑かれ命をすり減らしていくヴァージニアが不憫でなりませんでした。
最初は興味本位で近づいた年上の男性に手懐けられ、その寂しさに引き寄せられ、激しく責め立てられて彼の世界に取り込まれてしまう彼女が。
おそらく女手一つで娘を育てているヴァージニアの母マリアの心中を思うと心が痛みました。
彼女の真っ当な意見にも癇癪を起こし冷静な話もできない男に、まだまだ手許で愛しんでいたい年頃の娘を・・。委ねたくて委ねるのではないでしょう。

初見ではヒロインの母の心情に共鳴してしまい、エドガー・アラン・ポー、とんでもないやつだと思いました。
とはいえ娘の結婚相手を見つけるために観劇しているわけではないのだから、気持ちを新たに見てみようと翌日の観劇に臨みました。

2回目に見たエドガーも、やっぱりどうしようもない人でした。
恐ろしいほど幼くて純真で邪悪。

他人を陥れる企てに躊躇もなく、期待以上の才を発揮して相手を打ちのめしていました。
これには顔も人も好いロングフェローはひとたまりもない。豆鉄砲を食らった鳩みたいに立ち尽くすだけ。

初めて自分の領域に入り込んで来た人類であるヴァージニアを手放すことができず彼女が自分から離れることを恐れるあまりに無理な結婚をする、まるで孤独な冥王のようでした。

彼女を自分の世界に縛り付けておきながら自分の心の暗黒の淵から目を離すことができず現実の彼女を見ることができない。
ヴァージニアを伴侶に得たことでさらに彼の不安は大きくなってしまったみたいです。
喪失が耐えられなくて病に冒されたヴァージニアを抱きしめにも行けない。
ヴァージニアが彼に捧げる真の言葉も彼の耳には届かない。
かわいそうなヴァージニア。

物心ついてからずっとエドガーにとってのリアリティは憎しみや誹りや妬みに満ちた世界に立ち尽くす孤独で、愛とは儚く指の間からすり抜けるもの。
独りで見る夢の中にだけ在るものだったのかもしれません。
幼い頃に築けなかった愛着の関係が彼の人生に影を落としているように思いました。

幼い子どもが向き合うにはあまりに過酷な環境にいたから夢の世界、自分の内的世界に没入したのかもしれません。
夢想の中の母はやさしく儚く彼に微笑み彼に夢を見させる。
思い出を煌めくような言葉で書きつけておくことで自分の世界を作り出し、内的世界を広げて育っていった人なのではないかと思いました。

海原に浮かぶ砂上の机に向かい、ひとりペンを走らせている青年、そんな心の風景が浮かびました。
喪失の怯えに苛まれ続けた彼は、愛する人がこの世のものではなくなってやっと安心して愛せたのかもしれません。

誰しもが抱える心の奥に潜む影に怯えながらも目をそらさず見つめ続けた人だったのかなぁと舞台を見て考えました。
決して誉められはしない人生かもしれないけれど、だからと言って断罪して終わりにはできない。
そんなエドガー・アラン・ポーの魂の断片は、いまも世界のどこかで誰かの心に沁みているのだろうなと思います。

CAST

エドガー・アラン・ポー(天飛華音) 親切な脚本とはいえない分、天飛さんが繊細な芝居で時々の心情を表現しているのが凄いなぁと思いました。エドガーから感じられた幼さと純心は天飛さんに由来するものかもしれないなとも思います。いきなり感情を爆発させるところはびっくりでした。
ヴァージニア・クレム(詩ちづる) 生命力溢れる少女がおとなしい女性になってしまうのがせつなかったです。詩さんの透明感と安心感、すべてを包み込むような歌声が印象に残っています。
ルーファス・W・グリスウォルド(碧海さりお) 自分の感性に絶対的な自信があり創作物に対する見切りも異常に早い編集者。その裏には創作の苦しみを味わった経験と創作を続ける人への妬心もあるのかな。しかしそれゆえに素晴らしい創作物に出遭った時の衝撃も大きくそれを認めざるを得ない葛藤がある複雑な人物を碧海さんは絶妙に演じていました。個人的には「ベアタ・ベアトリクス」でダメダメな主人公を最後まで見捨てない好い人を演じていた碧海さんが真反対の役を演じられていた衝撃が大きかったです。
大鴉(鳳真斗愛) エドガーの心象が具現化したような役。登場が禍事の予兆であったり葛藤するエドガーの影のように踊ったり佇んだりという存在でした。セリフもない役でしたがその存在に自然と目が行き、とくに長い手足で禍々しくも美しく踊る姿には引き込まれて見てしまいました。
フランシス・S・オズグッド(瑠璃花夏) 自らも詩人でありエドガーが書く詩を心から愛しているという役どころ。現実のエドガーと恋愛したりともに暮らしたりすることがどれほど危ういことかを知っているくらい大人なのだと思いました。だからこそヴァージニアが心配なのだろうと思いますし、でもヴァージニアがエドガーの創作の源であることもわかっていて、エドガーの創作を愛しているゆえにエドガーから彼女を引き離すことができないのではないか、だから彼女がヴァージニアに寄り添うのは贖罪の意味もあるのかなと思いました。瑠璃さんの鈴の音のような声がとても心地よかったです。
ナサニエル・P・ウィリス(稀惺かずと) エドガーの同業者で理解者。エドガーとロングフェローとの文学的論争をけしかけたりする曲者でもあり、1840年代の米国文学界を簡単に説明する狂言回し役も担っていましたが、稀惺さんの流暢な説明セリフがとても聞き取りやすくてその口跡のよさ、話を聞かせる技量に驚きました。これからもさらに注目したいと思いました。
ヘンリー・W・ロングフェロー(大希颯) エドガーの同業者で顔も良い育ちも良い人物。グリスウォルドに気に入られて一躍有名人になったけれどもエドガーに一方的に批判されて豆鉄砲を食らった鳩のような顔がまた人の好さと育ちの良さを表していました。エドガーが「大鴉」で成功を収めたときも潔く負けを認め受容するところもまったく嫌味がない好人物に見える大希さんのお芝居がよかったです。

そのほかの演者の皆さんについても、それぞれが自分の役と向き合い作品世界での居方を考えて演じているのがつたわる舞台でした。
この経験はきっと実を結び次の作品につながるはずだと期待しています。
こういう作品を上演できることがバウホールという劇場が存在する意義なのだと思う公演でした。

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