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石川三四郎と萬朝報社のその後

 石川三四郎が黒岩涙香が社長であった萬朝報社に在籍していたことは知られている。言うまでもなく、萬朝報社は『萬朝報』を発行していた新聞社だ。1903年に日露戦争の開戦の賛否をめぐった対立が起こった際に、石川は非戦論を主張して萬朝報社を退社した内村鑑三、堺利彦、幸徳秋水に共感しており、堺、幸徳によって『平民新聞』が創刊された際に萬朝報社を退社して『平民新聞』に入社した。このことも石川三四郎の自伝的な文章「浪」にも書かれており知られている。(注1)この文章や一般的な印象からは石川と『萬朝報』の関係はこれを境に終わったかのようにみえる。

 しかしながら、石川と萬朝報社の関係がその後も続いていたことを推測させる情報が国会図書館デジタルコレクションで閲覧できる『日本新聞年鑑』に記載されている。『日本新聞年鑑』は、出版された年に起こった出版や報道に関するニュース、大手新聞社の業績、新聞社や関連会社の情報をまとめたものであるが、その中に大手新聞社に在籍している社員のリストも載っている。このリストを確認してみると、1927年(昭和2年)に出版された『日本新聞年鑑昭和2年』には、石川三四郎の名前が萬朝報社の幹部待遇の客員として載っている。以下の画像は国立国会図書館のデジタルコレクションで閲覧できる『日本新聞年鑑昭和2年』より引用して、赤枠部は私が付け加えたものである。

萬朝報1

国会図書館デジタルコレクションで閲覧できる範囲で1927年(昭和2年)以外の『日本新聞年鑑』も調べてみたが、石川の名前は1927年(昭和2年)に出版された『日本新聞年鑑』にしか確認できなかった。『日本新聞年鑑昭和2年』によると、この社員のリストは1926年(大正15年)12月現在の情報に基づいて作成されたとのことなので、この時期石川は社員ではない客員という形ながら萬朝報社に関係していたことが分かる。なぜこの時期のみ客員として萬朝報社に籍を置いていたのかは気になるところだ。

 石川は冒頭に紹介したように萬朝報社からの退社の印象が強く、私も萬朝報社との関係性もそこで終わったと思っていたが、退社後も萬朝報社と何らかの関係性を持っていたと言えるだろう。石川と萬朝報社の間にはまだあまり知られていない関係性がありそうだ。

(注1)「浪」に関しては、ありがたいことに青空文庫で読むことができる。

(追記1)この記事を投稿した後、石川三四郎と萬朝報社の関係は退社後も継続していたとご教示いただいた。石川はヨーロッパ滞在中に萬朝報に「特派員」として記事を投稿したり、パリに取材に来た黒岩涙香と会ったりしていたようである。(2020/10/15追記)


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