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ロッキングチェア

 読書では、ひとたび夢中になってしまえば、自分がどこにいるかなど忘れてしまう。ふとしたはずみに我に返って、どこにいるのか分からずに注意がさまよう。その宙に浮いたような感覚は、他に喩えようがない。
 とはいえ、読書に適した場所、あるいは適さない場所というものがある。これは本の好みに劣らず十人十色だ。凝りに凝って書斎を整えたのに、喫茶店に行かないと読めないという人がいる。喫茶店など論外で、狭い家の台所で立ち読みするという人もいる。就寝前の寝床でしか読まない人もいれば、居間のなかをうろついて読む人もいる。便所がいちばんだ、という小説の登場人物もいた。座って、立って、寝転んで、歩き回って、というように姿勢もさまざまだ。どこでも、どんなふうにでも、読書に没頭できる人は羨ましい。
 いっとき、読書に適した椅子を求めて、あれこれと探して回ったことがある。落ち着いた革張りのポルトローナ、柔らかな毛織りのソファ、機能的なナイロンメッシュのオフィスチェア——。結局、ロッキングチェアに落ち着いた。鈍い光沢のスチールの骨組みに渋色の橅の肘掛けがつき、そこに鼠色のカンヴァスを張った簡素な椅子で、使わないときは折り畳んで片隅に仕舞っておく。青空が広がり、明るい日差しが縁側や窓辺に差し込むと、そこにロッキングチェアを広げて読書を始める。
 幼い頃はとくに読書の場所を気にしていた記憶などない。ただ、障子越しの日差しが柔らかい和室で、曲木細工のロッキングチェアに揺られながら、よく本を読んでいた。トーネット風の、黒い艶やかな橅の曲木に明るく輝く籐編みを張ったロッキングチェアだったと思う。その身体感覚が知らず知らずに重なっていき、僕だけの読書の場所を形成したのだろう。
 僕は読書家と言えるほどではないし、愛書家ではなおさらない。父母の時代には文学全集というものがあって、早くから名作や古典や前衛の全貌を見渡すことができたかもしれないが、僕の時代にはもうほとんどそのような道標はなかった。ただ偶然に出会っただけ書物の数々——。記憶に残るのは、物心つくまえから触れていた多くの絵本、とくにレオ・レオーニと五味太郎。それに昔話や神話のたぐい、科学読み物、初めて読書の愉しみを意識した伝記の叢書。一〇歳の前後になれば、江戸川乱歩と星新一、エンデにル=グウィン、また飽かずに繙いた平凡社の旧版の『世界大百科事典』。一七歳の頃のマルクス・アウレリウス。二〇歳を過ぎれば、カルヴィーノとクンデラ、トゥルニエからボルヘス、バルトにセールにブルーメンベルク、そして世阿弥。レヴィ=ストロースとダミッシュも強い印象を残したが、それを理解したのは三〇代も後半ではなかったか。その頃には、さらにエリアーデとビュトールと吉田健一に、またプルタルコスとモンテーニュと兼好にも、親しむようになった。
 万巻の書が整然と並ぶ本棚に囲まれて過ごすことを、これまでいちども夢見なかったわけではない。自分だけの図書館、丸天井の下に重厚な胡桃の本棚が輪を描き、中央にはこれも堅牢な胡桃の書見台——。とはいえ、万巻の書を揃えるには知識も経験も乏しいし、揃えてみたところで多すぎる本を持て余すだけだろう。夢見た場所が読書に適しているとはかぎらないとは、残酷な現実ではある。でも、僕にはロッキングチェアが一つあるだけで十分だ。あとは明るい日差しが。

(2023.6.30-12.24)