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ゴダールよ、永遠に

 私の好きな映画監督の一人、ジャン=リュック・ゴダール監督が2022年9月13日に亡くなられた。フランスのリベラシオン紙が報じていた。私は誰かがリツイートをしたのを見て、"Jean-Luc Godard est mort"とフランス語で書かれていた文字を理解するのに、少し時間が掛かったが、"mort"は、つまり「死」を意味し、自分は「嗚呼、ゴダールもとうとう亡くなったか……」と何とも表現し難い気持ちになった。それは、悲しみや驚き、寂しさ、と言う、月並みでありふれた言葉では表せないものになっていた。死因は、自殺幇助と記載があり、「嘘だろ!」と思い、医者による薬の投与によって安楽死を遂げたとのことだった。「自殺」という言葉には敏感で、正確に言えば、尊厳死なのだろう、と気づいた。半世紀以上、映画を作り続け、もっとも映画の神(God)に近かった男が、自分でピリオドを打ち、呆気ない終わり方で、幕を下ろしてしまった。もっと作品を作るかと思った。新作の噂もあったし、あと2本くらいで引退すると聞いたような気はするし、確か感染症が流行りはじめた2年ほど前はしっかりインタビューとかにも答えてた動画が配信されていたし、何があったんだろう、と思ってしまった。

 ここで、ゴダールの来歴や作品などを私が記載するのは野暮な気がする。なので割愛する。
 映画が誕生して120年程度経ち、ゴダールが批評家として活動したのが、1950年頃、映画を撮り始めたのが1955年頃だから、映画の誕生から現在までちょうど半分くらいのところに映画監督としてのジャン=リュック・ゴダールが誕生し、「ゴダール以前/以後」と分断されるくらい映画における革命家としての役割を担ったような気がする。様々な手法で観客を魅了し続けたジャン=リュック・ゴダール。逝去して間もないのに、様々なエピソードが語られ、私はゴダールについて、知らない事が多かった、と驚きと落胆があった。私は、映画の専門家ではないので、しょうがないと思いながら、割り切っているのだが……、ゴダールが好きで、TSUTAYAでレンタルしただけでは足りず、高価な値段で買ったDVDソフトも所持している私としては、未だ勉強不足なところがあった。もしかしたら、一生解読不可能な映画作家の一人なのかもしれない(それもまた魅力なのだが……)。
 ゴダールの作品においても、いくつか分断する事が出来て、興味深い映画監督の一人だな、と感じた。60年代のヌーヴェルヴァーグ全盛の作品、商業映画と訣別し政治映画へと傾倒していった時代(ジガ・ヴェルトフ集団期)、音と映像とは何かを分析していった実験的なソニマージュ時代、商業映画への復帰時代、壮大な映画史への挑戦の時代、そして、20世紀から21世紀までの差し掛かる頃の作品、さらには新たな試みを行う3D映画や引用を盛り込んだ作品等、様々な表情が伺える。限られたサイコロのような面ではなく、とにかく変幻自在なものだと感じた。昨日丸かったものが、今日いきなり星形になっている、そのような感じがゴダールには感じ取られるのだった。

 私は、ゴダールの作品に出会っていなければ、映画はあまり鑑賞しなかっただろう。「フランス映画=退屈」と言う図式がちらついていた。ゴダールをDVDという模倣品ではあるが、その映像を観た瞬間に、その図式はすっとばされた。それ以降、言語も理解していない、聞き取れないにもかかわらず、字幕を頼りに、フランス映画にハマるようになった。
 恐らく、約10年前にたまたま受けていた大学の文学の授業で、教授からオススメされた阿部和重氏の作品を読み、そこから氏が影響を受けた蓮實重彦氏→インタビューもし、評論の対象にしていたゴダールと辿り着いたような気がする。或いは、字幕翻訳をやっている知り合いが、ゴダールの『気狂いピエロ』を見て、それがキッカケで翻訳を志したと言っていた。それからゴダールに興味を持ち始めたのも一つある。もしくは、大学時代に1年だけしか在籍していなかった軽音楽部で、先輩が菊地成孔氏の音楽理論の本を読んでいて、「菊地成孔はどんな人だろう」と思い、そこから調べてゴダールに辿り着いたと思う。恐らくゴダールに興味を持ったのは、漠然とではあるが、上記のように理由は3つくらいだろう。文化や芸術は枝葉のように広がっていくのを実感した。
 2014年にゴダールの3D映画の新作が出来ると聞き、菊地成孔氏のトークショーにも足を運んだり、実際にシネスイッチ銀座で、『さらば、愛の言葉よ』を3Dで2回鑑賞した。3D映画を初めて見たのはゴダールの作品で、恐らく現時点で最後であろう。2019年にも『イメージの本』を劇場で見る事ができて、過去のニュース映像や自分の作品、そして監督がスマートフォンで撮影した映像が混合され、それが芸術作品として昇華していくのだと気づいた。

 ゴダールについて以前記事を書いたので、是非お時間があれば、読んでほしいです。

 ゴダールの映画には、「死」への香りがそこはかとなく漂っている。デビュー作の『勝手にしやがれ』は、最後に撃たれて死ぬし、『気狂いピエロ』なんかは、頭にダイナマイトを巻いて火を付けて死ぬ(死ぬ前に気づいたが、気づいた時にはもう遅かった)。『軽蔑』でも、カミーユ(ブリジット・バルドー)が、映画プロデューサーと駆け落ちし、車が大破され死んだシーンが盛り込まれている。『はなればなれれに』でも、男2人・女1人のうち、男1人が撃たれて死ぬ様子が映し出される。『男性・女性』でも、死んだ場面は映し出せれてないが、ポール(ジャン=ピエール・レオー)が窓から飛び降りた、という感じが語られている。何処となくゴダールは、タナトスみたいなものを感じ取られるのだった。まさか監督自身が、このような終わり方で死んでしまうとは思いも寄らなかった。

 ただ、監督は死んでもゴダールの作品はずっと生き続けるだろう。そして、例えそれがありふれた愛の物語や犯罪ドラマ、そして、政治映画、実験映画、ドキュメンタリー、青春映画であっても、何かしら鏡のように映し続けていくだろう。そして、映画、物語とは何か、観客に訴えかけていく。
 ゴダールよ、永遠に。ご冥福をお祈りいたします。R.E.P.

追悼ジャン=リュック・ゴダールを表現。と言っても、映画のフォントと拾い物の画像を合わせた自分なりの表現。

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