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芥川賞「ハンチバック」それは紙の本への呪詛

市川沙央さんが「ハンチバック」で芥川賞を取りました。
その上で話題になっているのが受賞時インタビューで出た「重度障害者の受賞は初でしょうが、どうしてそれが2023年にもなって初めてなのか。それをみんなに考えてもらいたい」という市川さんの問いかけ。
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市川さんの問いかけをそれだけで受け取ればいろんな答えが考えられます。僕もこのニュースを見た時は作品自体未読で、市川さんとその作品についても詳しかったわけではないので「市川さんが頑張ったからじゃないかなあ」なんて呑気に思っていたのですが、インタビューをもうちょっと掘っていくと「読書バリアフリー」という単語があって。
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そう。実は受賞前インタビューですでに市川さんはこの件に詳しく触れていました。
(受賞前インタビューですが受賞後にアップデートされた記事です)
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一節を抜粋します。

『なかでも、日本の読書バリアフリー環境の前進のなさに対するいらだちは執筆のいちばんの動機でした。小説も学術書も、障害者の読書が想定されていない(=電子化されていない)ものが多く存在すること自体に大きな問題があると思っています。重度障害者が本を読んだり学者になったりするとは思わないのかもしれません。』

つまり市川さんは「日本は障害者が読書をするのに『障害』がある環境だから、重度障害者が作家になったり賞を受賞するのにこんなに時間がかかったのではないか」と問いかけていたわけです。そしてその問題意識がこの小説を書かせたのだとも。

というかそもそもこの作品自体が「紙の本への呪詛」が綴られた内容です。
障害を持つ主人公が吐く『紙の本を1冊読むたび少しずつ背骨が潰れていく気がする』という呪詛。
だけど主人公は、市川さんは、死ぬ気でページをめくっていきます。
本を愛しているから。
本が大好きでしかし本を読むことにハンディキャップがあるから「紙の本」を憎む。

このテーマの作品が芥川賞を取るとは……。さすがに芥川賞審査員の中には電子書籍をまだ許諾してない方はいませんが、まだ許諾していない作家さんや版元の方々は何を思うのか。

『紙の匂いが、ページをめくる感触が、左手の中で減っていく残ページの緊張感が、などと文化的な香りのする言い回しを燻らせていれば済む健常者は呑気でいい』

強い言葉です。

しかしまた同時に、とはいえ高度障害者を自認する市川さんが芥川賞を取ることのできるくらいには電子書籍のおかげで読書環境が整備された……とも取れる内容です。

主人公は読みたい本をAmazonのマーケットプレイスで通販し、自室でスキャナを使って「自炊」(自分でページをスキャンして電子書籍にする作業のこと)します。業者に頼む自炊が法律で禁止されたことを愚痴りながら。

呪詛も愚痴もあるけれどもハンディキャップのある人たちが仮にも読書できなくはない世の中であることが示されます。もちろんその上で「もっと整備されて欲しい」と言ってもいるわけですが。


「読書バリアフリー」という啓蒙的なことを考えてやってきたわけではないのですが、そもそもコンテンツビジネス、特にwebビジネスの本質は、マルチチャンネルなんて言うのですが、できるだけ多くの「購入機会」を増やすことが課金につながるということで、この15年くらいみんなでそれを目指してやっていたことがここにつながった

電子書籍は文字が大きくできたりするのですが、そんなことはスマホやPC上では当たり前。いろんな大きさで読みたいというニーズは昔からあり、電子書籍登場前から「文字を大きくした文庫」など目が弱ってきた方用の対応や、少し前からはファッション誌が「バッグインサイズ」と言って女性がバッグに入れやすいように内容は一緒だけど大判と小さい判の2サイズを同時に出したりしています。

これらはすべて「ユニバーサル」というよりは「マーケットイン」なニーズを取りに行った結果。が、フィジカルな本(最近では電子書籍=デジタルコンテンツに対してリアルの本をフィジカルの方の本なんて業界では呼ばれてたりします)を小さすぎるニーズに対応させるのはコスト的に収支が合わないことが多かった。それがネット時代になってほぼゼロコストで対応できるニーズが大幅に増えました。

代表的なものが先に挙げた文字や画面そのものの「大きさを変える」なのですが、もうひとつ大きくて代表的なものが本が「どこでも」「すぐに」手に入るようになった、です。

どこでもいつでもダウンロードやストリーミングすれば読めるというのはデジタルコンテンツだから特に電子書籍の特徴というわけではないですが、皮肉なことに電子書籍の隆盛前から「フィジカルの本が手に入りづらくなった」という出版界の弱点を電子書籍が埋めてくれました。

初版部数が下がるということは書店に行き渡らなくなる、手に入りづらくなる、とイコール。ニッチ系のニーズが限定された本は現代ではかなり手に入りづらくなっているのは想像に難くないかと思いますが、マンガなどの大きなニーズが想定されるものでも例えば50巻くらいまで進んでしまうと、そのすべての巻を取り揃えるリアル書店なんて滅多にあるものではなく、基本的にはその場では手に入らない状況が続いています。最新刊である51巻が入荷したその書店に1巻がないことなんてざらですよね……。

そしてスピードも落ちています。ECで頼んでも在庫があれば当日翌日に届きますが、ネット書店に在庫がある作品なんておそらく発売された本の10%あるかないかだと思います(これ、発表されてる数字じゃないので体感ですが)。基本的には頼んでから7ー10日くらいかかるのは当たり前。リアル書店だともっと遅くて14−30日とかですかね……。

地方なんてめっちゃ遅いです。なぜならトラックが減ってるから……東京から地方へ行くトラックの数が減っているかつなるべく運ぶ本がトラックいっぱいになってから出発するのでそれまで発送が待たされるようなイメージ。

また、そもそも出版社が在庫持ってなくて注文もできない状況も多々あると思います。大変皮肉な状況ですがこの「ハンチバック」自体が本日7月25日時点でAmazon以外の通販サイトは軒並み品切れ、取り寄せに1ー3週間……。

ところが当然、電子書籍にそう言うのはない。現状ネットにアクセスさえできれば、ストリーミングだったら借りればいいのでPCやスマホを所持している必要さえないし、課金だってwebマネーなんかを買えばクレジットカードを持っている必要なんかもない。電子書籍として市場に登録さえされていれば、居住地、性別、年齢、職種(本屋が開いている時間は働いているような職種の人もます)、立場……本当にユニバーサルに誰でも平等にあらゆる本が手に入るようになりました。

そして副次的なものですが市川さん言うところの「障害」……例えば目が見えなくても(オーディオブックというものが隆盛しています)目が弱くても(字は大きくできるし色も変えられるし画面明るくもできるし)手が使えなくても(ページめくりを声で、なんてこともできます)足が使えなくても(特に買いに行く必要もないのはもちろん、本屋をめぐって本を探す必要もない)フィジカルな紙の本の時代ではそういうハンディキャップを持った方達には困難だった読書が随分と簡単になったはずです。

正直、この市川さんのコメントを見るまで、ハンチバックという作品を読むまであまりこのようなことに重きを持って見ていませんでした……自分は「あらゆる人が本を買える、買いやすくなる」ことがビジネスを大きくするという視点でやってきただけで。実に無知蒙昧……。

あとはこの業界がよりユニバーサルになるには「電子書籍として発売する」本がもっと増えること。マンガの電子書籍化率はほぼ100%なのですが、マンガ以外となると50%を切っていると言われています。

諸事情あるのは十分承知しておりますが、こういった市川さんの投げかけた視点からの電子書籍化がもっと進む展開もありうる、と思います。そういう世の中になっていけばいいな、と。いや、他人事ではないですね。自分もそういう世の中になるよう力になれればと思います。これまで電子書籍化されてこなかった本も電子化するいいタイミングになったんじゃないかなあ、なんて。

最後に、改めまして市川さん、芥川賞受賞おめでとうございます。
大金持ちの障害者が生まれ変わったら高級娼婦になることを夢見ながら毎晩、空想の風俗体験記を綴る……めっちゃパンクで格好いい小説でした。
2023年におけるハードボイルドってこういう作品のことなんだと思います。

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