一人称が先生の教員は要らない

会話の中で一人称を表す言葉は「私」である。
もちろん他にもあるが、基本的にはみんな「私」を使っている。

しかし、多くの学校の先生の一人称は「先生」である。

私は、この職に就いたときから、自分のことを「先生」とよぶことに抵抗があるし、
自分のことを恥ずかしげもなく「先生」とよぶ教員にも違和感を感じる。

先生と呼ばれる職種は他にもある。
医師、弁護士、議員、作家、どれも自分のことを先生と称する者はいない。

なぜ教員は自分を「先生」と称するのか、
答えは『相手が子供だから』
これ以外にないだろう。

これは、子供のいる家庭で、夫婦がお互いを「お父さん」「お母さん」とよぶのとはわけが違う。

子どもを下に見ているのだ。
しかし、これを言うと「そんなつもりはない」と返ってくる。

つまり、無意識なのだ。

先生は上で子どもたちは下
先生は与える側で子供は受け取る側
無意識にそう捉えているのだ。

『無意識先生マウント』とでも言うべきだろうか。

更に言うと、教員どうしも「先生」とよび合う。
子どもの前だけならまだしも、教員しかいない場でも、宴会の席であってもそうよび合っている。

おそらく、そうすることで確認しているのだ。

自分たちが子どもたちの上にある存在で、子どもたちに授け、育てる存在であると。

それほどまでに教員とはおこがましい存在になっつしまったのだ。

人が人を教育する、育てる、成長させる、伸ばす、などということはそもそもおこがましい行為である。

基本的に子どもたちは自分で考え、学び、自らの力で成長していくものだ。そういう力が備わって生まれてくる。

大人が口を出すことのほとんどは、その邪魔になることの方が多い。

だから教育に仕事として携わる教員は、子どもと関わる大人の中でも最も謙虚でなければならない。

自分を先生と称して自己満足に浸り、教え授けることを『教育』などと言って胸を張っているのは、ちゃんちゃらおかしい。
教員になったからといって、そんなに立派な人間なのだろうか?そんなはずはない。

今の時代、教員など凡人の集まりである。
もしかすると、それ以下かもしれない。

『そんな自分が、人になにかを授け育てることなど簡単にできるはずはない』

教員たちは今一度この謙虚さを備え、
その証拠として自分を『先生』と称することをや、先生どうしで『先生』とよび合うのをやめるのだ。

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