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それでも、わたしが投票に行かない理由。

いつも選挙期間中に感じること。

今日は参院選の投票日だ。

この一週間、友人知人のタイムラインは「山本太郎」と「れいわ」一色だった。この時期に、敢えてこんな文章を書くこと自体、KYの誹(そし)りを免れないと思う。

いつまでも子どもじみたこと言ってんじゃねぇよ、黙ってさっさと投票行けよ、5分だろ5分、いろいろ言い訳つけて意固地になってるだけじゃねぇのかよ、そんなことはだれにも言われないんだけど、こうも「選挙選挙」「投票投票」と言われると、どことなく強迫観念じみたものも感じる。まるで投票に行くことが当然で倫理的に正しく、わたしたちには投票に行かない理由なんてこれっぽっちもないように感じてしまう。けれども、わたしは実際、なんとも言えない気持ち悪さも感じているのだ。そう、原発事故が起きたあの時、掌を返したように巻き起こった「脱原発」のシュプレヒコールや、数年前に急激な盛り上がりを見せた「三宅洋平」現象の時のようにだ。

別に他意はない。投票に行く人には投票に行く人の論理がある。このムードの中、選択的に「投票に行かない」わたしはマイノリティ中のマイノリティであることに違いないのだが、それでも、わたしはこの世界にはいろんな考え方があったほうがいいと思っている。それこそが健全な社会だと思っている。だからこそ、敢えて発信しようと思うのだ。バランサーとして、反作用として。

元来、わたしは天の邪鬼でひねくれ者だ。大勢が集団で一方に走り出すと、立ち止まって考えてから、逆の方向に歩きたくなる、そんな性分だ。だから、癪に障る記述がこれから多々出てくるかもしれないが、そういう部分を加味して、いくらか割り引いて読んでほしい。そして、わたしの言うことなんて気にしないでほしい。

「投票に行かない」人にだって、理由がある。

わたしが「投票に行かない理由」を、たった13字で答えるなら次のようになる。

わたしが「ごりごりのアナキストだから」だ。

もちろん、こんなお粗末な説明で政治的関心の高いみなさまには納得してもらえるはずもないので、もう少し噛み砕いて説明しようと思う。

以前から「積極的政治無関心」という用語で説明してきたように、わたしは現今の不毛な政治システムに関心を払わないように努めてきた。真っ当な論理や正当な道理がまったく通用しない今の日本社会(とりわけ政治分野)において、わたしたち一般市民が政治参加することはもはや不可能だという信念があるからだ。

投票に行かない無党派層の若者たちの多くを「消極的政治無関心」とするならば、彼らの気持ちは概ね「投票に行ってもなにも変わらない」「だれに入れていいかわからない」「そもそも自分たちは政治と関係がない」というような言葉で代弁できるのではないかと思う。

要するに、彼らは「政治にまったく期待していない」のだ。

この態度は「積極的政治無関心」のわたしにもぴったり当てはまる。「積極的」であれ「消極的」であれ、結局「政治的無関心」を生み出しているのは国家と政府が国民に与え続けた「疎外感」と「不信感」であり、政治に対するわたしたちの「失望」だ。だから、むしろわたしはいい歳をこいても、投票に行かない若者たちの気持ちが嫌と言うほどわかるのだ。

選挙が間近になると、俄(にわか)に一種高揚したように「投票」を促す投稿がタイムラインを賑わすようになる。わたしはそんなみんなの態度を見ていると、虐待を受け続けた子どものようだと感じることがある。

ひどい仕打ちを受け、傷つけられ、裏切られ、無視され、欺かれ続け、それでもそんな親に対して「たった一人の父親」だからと離れないでいる子どもみたいだ。そこに「あんな最低な父親でも、もしかしたら真っ当な父親に戻ってくれるかもしれない」と一縷の望みを抱く被虐待児のメンタリティを感じてしまう。

わたしは同じ「虐待」を受けた者として、どうしても同じようなそんな気持ちにはなれないでいる。わたしは3.11以降、この日本というよりも、国家の本質に気づいてしまってから、二度と「国家」というものを許さないことに決めた。

わたしはあいつが今更足下にむしゃぶりついて、懇願して謝っても、絶対にそれを受け入れることはない。譲歩はしないし、対話の余地もない。足蹴にして言い放つ一言は、「地獄で命乞いしてな」のたった一語だ。

だれもが体感として知っているであろう、選挙の不毛さ。

わたしが「能動的に」投票に行かないのは、現今の国家のシステムそのものを包括的に否定しているからだ。そのシステムには、当然選挙システムも含まれる。

なにか物事を決める時、「多数決」は最低のやり方だ。こんなことは、みんなもわかりきっていると思う。10人いて、6対4になったら、4人の意見は封殺される。学生時代に修学旅行の目的地を決める際、多くの人が失望を感じた経験はないだろうか。「多数決」で物事を決めたら、多くの人に不満が残る。これは至極当然のことだ。

そして、もっと悪いことに、先頃市長選に参加してよくわかったことだが、いまの日本の選挙システムには「厳密性」と「公平性」がない。要は、金があって、コネがあって、名があって、顔が売れている、そういう人しか勝てない、あるいはそういう人たちにとてつもなく有利なシステムになっている。

例えば、容易に想像できるだろうが、この世界で大多数の国民がなにも考えず投票したり、騙されて投票したり、自分の利益だけを考えて投票した場合、よく考えたり、社会正義を鑑みたり、全体の利益を考えたりしてなされた一部の人たちの投票は無効化されてしまう。乱暴な言い方をすれば、バカな一票も賢明な一票も、この世界では同等に扱われてしまうのだ。

この議論は古くから哲学者が幾度も重ねてきたので、実は今更する話でもないのだが、とにかくいまの日本の選挙システムはどこまでいっても不毛、ばかばかしいということに尽きる。

わたしはよくこれをゲームに例えるが、「不正なゲームがあったら、あなたたちはそれに参加するだろうか」という問いがここで立ち上がってくる。もし参加するゲームに不正な点があり、相手が初めから多くのポイントを持っていたり、相手がポイントを不正に操作したり、あるいは途中でルールを書き換えたりするような、そんなゲームがあったとしたら、多くの人はそんなゲームに参加したいと思うだろうか。もし仮に参加したとして、そのゲームで勝つために正当な手段で勝たなければいけない道理などどこにあろうか。わたしが言いたいのは、そういうことだ。

公文書を平気で改竄(かいざん)するのがいまの日本という国家だ。これは多くの人が周知の事実だろう。では、そんな国家で行われる選挙で不正操作が行われないという確信はどこから生まれるのだろう。あるいは、多くの人は不正操作される前提で期日前投票に行っているということなのか。

今度の選挙結果で「不正操作が発覚しました」という記事が流れたとして、今更どれぐらいの人が驚くだろうか。わたしなら「ああ、やっぱりな」としか思わない。それぐらい、いまの日本に真実などないことは、3.11以降の対応でだれもが知っていることだと思う。

こんな言い方をすると、気分を害される向きもあるかもしれないが、「選挙」なんて才能豊かな人々が時間を割くことではないのだ、とわたしは強く思ってしまうのだ。この不毛なゲームに多くの人の時間が奪われていることを、わたしは悔しく思ってしまう。

「自分のこと。家族のこと。日本のこと。考える、きっかけ。」「日本の明日を、私たちで決めよう。」みたいな政府が広報で使用するキャッチフレーズを目にすると、投票率を意図的に下げている張本人たちの白々しささえ透けて見える。選挙を不毛なものにし、国民の半数近くを無関心にしている側の人間たちが、政治的無関心さをさも彼らのせいにしようとしている。

わたしが投票に行かない理由の大部分は、投票に行くということはこの不毛な選挙システムを容認し、強化することになるからだという思いがあるからだ。はじめから不正であることがわかっているシステムに対して、疑義を申し立てずに参加することは、その間違ったシステムに加担することになる。

「国家」という幻想を前提に物事を語る危うさ。

別に、わたしは山本太郎氏が嫌いではないし、言うことに共感しないということでもない。彼の言っていることは至極真っ当なことだと思う。

ただ、同時に彼が言っていることは、わたしたちが何年も前から言っていることとさほど変わりはない。大きな声で言ってくれたことに変わりはないが、今更拍手喝采を送るほどのことではないと個人的には思う。彼は真っ当なことを真っ当な声の大きさで言ったに過ぎない。それを受けて、社会の進歩だと言うのなら、あまりにも進歩が遅すぎるのだとわたしは思う。この世界の価値体系は亀の歩みのように遅れている。

今回の選挙で山本太郎氏が当選し、「れいわ」が躍進をしたとして、わたしは本質的にはなにも変わらないんじゃないかと思っている。なぜなら、いまの危うい選挙システムを利用して、まかり間違って当選したとして、権力構造が変わらないのであれば、結局不毛で下らない権力争いの応酬になることは目に見えているからだ。

どんな国家であれ、どんな社会体制であれ、これまで国家でなされた権力闘争が平和的に解決された試しは一度たりともない。このことに関して、わたしたちは目をつむることはできない。

いまの安倍さんですら、自分の意志で政治的判断をしている訳ではないだろうことは容易に想像がつく。裏には必ず黒幕がいる。だとしたら、根本的な権力構造の誤謬を超克しない限り、人類が次のフェーズに行けることはないと、わたしは思う。

万が一、山本太郎氏が日本の首相になったとして、多くの人は彼がこの国を変え、希望の溢れる国家にしてくれると本気で思っているのだろうか。

原発に関しても、日米原子力協定がある限り、日本の一存で原発を廃止することはできないことになっている。辺野古基地の建設にしても、日米地位協定を笠に着て、アメリカが圧力をかけてくることは目に見えている。結局、山本太郎氏の至極真っ当な政治的判断が通るような社会なら、もうとっくに日本はそうなっているはずなのだ。そういう真っ当な論理が通らない世界だからこそ、日本と諸外国はこういう状況に陥っている。

いままでに、わたしは何度も説明をしてきたがアナキストは「権力」を認めない人々である。どれほど理知的で、道徳観念が優れている人物であろうと、そういう人物にでも「権力」を渡さないことが、人類が平和的に生きるためには必須だと固く信じている人々がアナキストだ。

わたしは生まれながらに選択できないことで個人がとやかく言われるのはおかしいと、子どもの頃から思ってきた。不細工だとか、肌の色がどうだとか、性同一性障害だとか......。性格が悪いのだって、半分以上はそいつのせいじゃないといまでも思う。

当然のことながら、わたしは好きで日本に生まれた訳でもないし、日本人に生まれた訳でもない。わたしが選択的に日本人として日本で生まれた訳ではないのに、日本国民としての役割を押し付けられることは暴力以外のなにものでもない。

わたしは心情的には、日本人であることを拒否しているし、日本人であることも容認していない。「じゃあ、日本から出て行け」とすぐ言われそうだが、一人の個人が自由にどこにもいけないように仕組まれている、それがいま全世界が採用している「国家」というシステムだ。

わたしは「国家」自体を幻想だと思っている故に、わたしが日本という「国家」の構成員であるという幻想も信奉しない。これは、わたしにすれば至極当然の論理だ。

そして、なにより悪いのは、いまの社会システムの中に、生まれもった国籍を捨てる手立てがないということだ。わたしたちは生まれながらに「国家」に隷属させられてしまう。

リチャード・ドーキンスが提唱した「利己的な遺伝子」よろしく「国家」という代物は「国民」を犠牲にしてそれ自体が存続することをあくまでも求め続ける。「国家」のために全世界の多くの「国民」が苦しめられている状況はご覧の通りだ。「国家」という幻想のために、わたしたち多くの「国民」という生身の人間が苦しめられ、殺されている。この現実をばかばかしいという言葉以外のなにで表現できるというのか。

「国家」に隷従させられた「国民」が、移動と居住の自由も認められず、あいつらが偉そうに言う「基本的人権」も保障されない状態で、なぜ「国家」を担保しなければならないのか。なぜ、どこまでもわたしたち人民を傷つけ、虐げ続ける「国家」という暴力装置に対して、わたしたちが従順に従わなければならないのか。わたしは選挙がある度、毎度のことながらそう感じてしまうのだ。こんな不正なゲームは、わたしたちが望んで始めたゲームでないということに沸々とした怒りを覚える。

所詮、「権利」や「義務」もイデオロギーだ。

投票率で言うと、高くなってもせいぜい70%ぐらいが上限じゃないのかとも思う。一見情勢が安定していて、政治教育もなく、義務投票制度のない日本の場合、それ以上の人が投票に行くことは考えにくい。つまり、声を上げない3割の人たちは無視することになっている。声を上げない人は存在しない、いまの選挙システムはそういう暗黙の(尚且つ暴力的な)了解の上に成り立っている。

投票に行かない人たちは与えられた権利を自分たちで放棄しているんだから、彼らのことは考えなくてもいいという論理は、一見もっともらしいが、結構な暴論だと思う。

世の中にはいろんな人が存在する。食うや食わずで投票どころじゃない人たちもいるだろうし、なんらかの理由で情報を得られず判断を下せない人たちもいるだろう。そして、そういう人たちが当事者として声をあげることはない。なぜなら、彼らはそもそも声を上げるための声を持っていないか、あるいは社会的弱者としてどこかに押し込められている可能性が高いからだ。一方的に与えられた「権利」を行使できない人々と、行使しない人々を一緒くたにして「投票に行かない人」とまとめあげるのは危険な論理だ。「投票に行かない理由」を単なる「怠惰」で語るのは無理がある。無思考で選挙権を放棄している人々がいるとしても、100人いれば「投票に行かない理由」は100種類ある。

ちなみに、わたしはオーストラリアやシンガポールやベルギーみたいに、投票が「義務」とされて、罰則規定があったりするのも個人的には最悪だと思う。「義務」の名の下、なんらかの行為を強制・強要されることは、真の意味での民主主義において、あってはならないと思うからだ。いずれにせよ、投票しようとしまいと、それは個人の自由意思に違いない。そこに「国家」が介入する余地はない。

「投票はわたしたちに与えられた尊い権利だ」みたいな言説もよく流布しているが、わたしはそんな言説にも与しない。そもそも「権利」という用語自体、「国家」という幻想が生み出したイデオロギーに過ぎない。自然状態には、「国家」も「権利」も存在しない。ありもしない「国家」がわたしたちに「権利」を与えるだって?アナキストにとっては、あり得ない話だ。

犬はマーキングをする「権利」を持っているだろうか?猫はゴミ箱を漁る「権利」を持っているのか?わたしたち生物は自然状態でだれかに、あるいはなにかに「なにかをする権利」なんてものを与えられることはない。それは「国家」という暴力装置が「国民」に対して「義務」を負わせるために編み出した詐称術なのだ。

実はどこにもない「投票に行く理由」

さて、ここまで「投票拒否」をする立場として、アナキストとしての思想を一方的に展開してきた。そろそろなにか言いたくなってる人もいるかもしれないので、ここでは投票を棄権する人たちに対するよくある批判に対して(そもそも投票に行かない人たちに批判があってはいけないんだけど)、心理的緩衝剤を提供したいと思う。

「投票に行くことは倫理的に正しい」

倫理的な正しさを語るのは、実は結構難しい。「人を殺すのがいけない」理由を、本当はわたしたちはよく知らない。実際に、「国家」が戦争という名目で多くの市民を殺したところで、それは「正義」や「制裁」という覆いに隠されてしまう。自殺や無差別殺人が社会的に生み出されたとしたら、それは「社会的な殺人」ではないのかと、わたしは思う。大規模な人災は「国家的殺人」だと言うことだってできる。そう、倫理的な正しさは実はあんまり当てにならない。「投票」=「倫理的に正しい」と言ってしまうことは、投票に行かない人や行けない人たちを倫理の範疇から閉め出してしまうことだ。「権利」の行使と倫理を結びつけて語ってはいけない。「権利」を行使しない人たちはけっして非倫理的な訳ではない。

「投票に行くのは国民の義務だ」

「義務」や「権利」という観点は、先述のように幻想論でいくと不毛なので、あまり突っ込んだ議論をするつもりはないが、わたしはもし仮に「投票」に行くのが日本という「国家」において「義務」だとしても、憲法を遵守しない「国家」において、憲法の下位に存するいかなる法律やルールも、「国民」がそれに従わなければいけない道理などないと思っている。どんな「義務」も「権利」も実質上、わたしたちは無視できる。法的拘束力や身体拘束が可能だとしても、わたしたちには一方的に突きつけられた「義務」や「権利」に唾を吐きかけることができるのだ。それは「人間」を「国民」に押し込めることができないなによりの証左だ。「義務」を負い、「権利」を有した「国民」である以前に、わたしたちは「人間」であることを忘れてはいけない。

「投票に行かない奴は人間のクズ。非国民」

「国家」を信奉しないようなわたしたちのようなアナキストは「非国民」だとか「国賊」とか言われてもどうしようもないんだけど、とにかく「投票に行かない人」=「ダメな人」みたいな扱いを、わたしはどうしても受け付けない。

一票を投じる背中おとなだね。

送付されてくる投票所入場券の裏に、こんな文言が書いてある。こんなもん、余計なお世話だし、「国家」がいちいち「国民」に言うことじゃない。「一票を投じる」ことが「おとな」なのか?とにかく不毛な選挙システムを構築しておきながら、「投票すること」を無条件で善しとする考え方自体、わたしはプロパガンダだと感じる。「投票に行かない奴は人間のクズ」とか言う奴は、その言葉を吐いてる自分に言葉の刃を向けてほしいと思う。現今の選挙システムを邪悪だと思っている人間がいたら、「投票に行く奴は人間のクズ」という価値観だって、じゅうぶんあり得るんだから。

「投票に行かない奴は政治に文句を言う資格はない」

これもよく聞く言葉だけど、「国家」に強制的に隷属させられている哀れな「国民」はだれだって政治に文句を言う資格がある。何度も言うが、わたしたちは選択して日本に生まれた訳ではないし、好き好んで日本にいる訳ではない。多くの人は好むと好まざるとに関わらず、日本人として日本にいるしかないのだ。だから、そういう人たちは全員おしなべて日本という「国家」に文句を言う資格はある。「投票に行かない人は政治批判をするな」という暴論は、「選挙ファディズム」に陥っている。政治は政治に関心があって、投票に行く人たちだけのものではない。

「投票に行かない奴は国家の制度をすべて利用するな」

わたしが「国家」を否定すると、「じゃあ、アナキストは国家から恩恵を受けていないんですか?」みたいな質問が出てきそうだが、これに関しては、もちろん恩恵は受けている。だけど、同等かそれ以上に害悪も被っている。この世界でわたしたちは「国家」から逃れることはできないから、恩恵を受け取って当然だと言わせてもらう。「じゃあ、国家を否定するなら国家から受けられる恩恵はすべて拒否すべきではないんですか?」みたいな質問が出てきそうだが、「いやいや、そもそも国家がめちゃくちゃなんだから、いちいち真面目に対処するかよ、めんどくせー」とわたしは思う。ストイックにわたしから「国家」を剥ぎ取っていこうとしても、この世界でそれを実現することは不可能だ。現実の世界で、わたしたちにとって「国家」は不可避となってしまった。それで、国の制度を利用していると言われても、国の制度を利用しない手立てがわたしたちにはないのだから、仕方がない。

「棄権する奴は、与党を応援しているのと一緒」

結果的に、投票拒否をすると与党を応援したことになるから、投票しない人は与党支持者だと批判されることもあるが、もしそうだとしても、そうなっているシステム自体が間違っているんだから、その批判を投票しない人たちに向けるのはお門違いだ。本来であれば、投票しなければ与党に有利になるという選挙システムを見直さなければならない。そんなものは選挙システムの根本的な不備なのだ。

「投票だけが、わたしたちが政治に参加できる唯一の手段だ。だから、棄権するなんてもったいない」

わたしは今一度「民主主義」の意義を「国民」全体で問いたださなければいけない時期だと思うが、いまの「間接民主主義」が本当の意味で機能しているのか、賢明なみなさんには自明のことと思われる。この「間接民主主義」の日本では、わたしたちが政治参画するには投票するしかない、というのは本当なのか。

先日、香港で若者を中心に大規模なデモが行われた。結局、「逃亡犯条例」完全撤回を求めたデモは、いまでも散発的に継続されている。彼らは自国の自主独立が危ぶまれたとき、署名や投票なんていう生温い方法ではなくて、デモと抗議活動という「直接行動」により審議再開を停止させた。わたしは日本でなぜこういった事態にならないのかと不思議に思った。

思うに、日本国民の多くは盲目的に「投票だけが、わたしたちが政治に参加できる唯一の方法」だと思い込んでる故に、デモやクーデターというような「直接行動」という選択肢に目が向かないのかもしれない。わたしはいまの日本の状況を、「投票」というような間接行動で変革できるほど甘っちょろい段階にはないと思っている。わたしたちが政治に参加できる方法は、実は無数にある。「投票だけが、わたしたちが政治に参加できる唯一の方法」だと思い込むことによって、実はわたしたちは無力化されているのではないかと思う。

では、投票に行かずにどうやって社会を変えるのか。

これは、つまるところ「信仰」の話だ。わたしがなにを「信仰」するかはわたしの自由だし、わたし以外の人がなにを「信仰」するかもその人の自由だ。

すぐさまわかりやすい代案を求めたがる人は「じゃあ、どうすればいいんですか?」と訊きがちだが、そんなことはわたしにもわからない。アナキストは国家をなくした方がいいことはわかっていても、どうやって国家をなくすことができるかは知らないのだ。答えは、みんなで探すしかない。わたしも「投票に行かない理由」を長々と語ってきたので、まだまだ不透明だけれどもこれから「投票」以外にわたしたちができる政治活動はなにか、ここで少しだけ考えたい。

わたしは以前から自著『ハピーテロリズムで無血革命を』でも語っているが、そろそろ独立運動を考えたほうがいいと思っている。

わたしの周りだけでも、これだけ山本太郎氏を支持する人がいるならば、どこかのゴーストタウンか寒村に数百人、数千人規模で移り住み、そこに新たなコミュニティ(アナキストとして「国家」は認められないが)を創るということはできないだろうか。

新たに独自の憲法を制定し、独自通貨を作り、コミュニティの構成員が対話で意思決定をなす合議制を採用する等、細かい部分は詰めていくとして、一からすべてを構築するほうがわたしには現実的に思える。

わたしはいまの日本をよく「壊れた工場」に例えるが、すべての機械のすべての部品が壊れているとしたら、そのすべての部品を交換するんじゃなくて、一度工場自体を壊したほうがどう考えたって合理的だ。日本だって、いまそんな状態だと思う。

選挙の度に淡い期待をして、一喜一憂したり、一縷の望みをかけたりするのにもういい加減うんざりしている人も多いだろうと想像する。今回の選挙の結果を受けて、それでも尚「いつか」「なんとか」なるかみたいな希望的観測なんて、わたしには要らない。きっといまの国家体制を続けていったところで、放射能汚染も食料廃棄も動物の殺処分も気候変動も「いつか」「なんとか」なることはない。

時間がかかるかもしれない。もちろん、そうだ。だけど、わたしたちに本当に時間なんて残されているんだろうか。わたしははっきり言って「投票」だけで満足なんかできない。「投票」以外にも、できることをいっぱい探してやっていきたい。

と、まあ、ごちゃごちゃ言ったけど、結局、わたし、投票行っちゃいました。えへ。

だれに入れていいかわからなかったので、咲ちゃんに聞いて共産党の「高見あつみ」氏とれいわの「山本太郎」氏に入れてきました。こんだけ、言うといて、投票行くんやもんね。わたしの思想なんて、所詮脆弱。




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