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創作物に触れるときは没入することに意味がある

 楽しみ方は人それぞれだから別にどうしようが知ったこっちゃない。だけど小説なり漫画なり映画なり、創作物に触れるときは没入することに意味がある、というのが私の意見だ。

 少し前「竜とそばかすの姫」を観た後。映画館のロビーのソファのところにいたのよ、ネタバレ撒き散らしながら粗探して講釈垂れてる人たち。伏線回収できてないとか、どこそこが矛盾してるとか、それこれは現実的じゃないとか。

 うるせぇ帰れ。

 創作物はあくまでも創作物だ。現実じゃない。そこに矛盾があろうが無理があろうがそんなもの、みるひとが許してしまえば何の問題にもならない。

 別に論理的に観るおもしろさは否定しない。私だって学術的に分解したり分析したりする楽しさは知っている。
 でもそれ一辺倒では息苦しくなるだけ。創作はある程度までは科学的に作れるけれど、それだけでは語れない感性の部分も少なくない。だから論理だけで語るのはかなり損していると思う。

 特に否定的に粗を探すような楽しみ方はおすすめしない。否定的に、ただただ評価するために創作物に触れるのはもったいないどころか意味がないとまで考えている。

 お金を払って、時間を割いてまでみるものなのに、粗を探して楽しみを得るなんて正直趣味が悪いんじゃない?

 もちろん仕事として、できるだけ正当な評価をしなければいけないなら話は別。それは仕事として、プロとしてフラットにみなければいけない。だけどそうじゃないなら肯定的に、作者に寄り添って観るほうがいいと私は思う。

 だってせっかく楽しめるチャンスに触れるんだよ?そのチャンスを潰すような真似、自分からしなくてもいいじゃない。

 否定的に観ても、悪い点を「見つけた」楽しさは得られるかもしれない。だけど同時につまらないところが目につく。損した気持ちもついてくる。ただ楽しみたいのであればそんなことする必要なんて微塵もない。

 私は肯定する。たとえわかりにくくても、できるだけ作者の意図を汲もうとしてみる。できるだけ物語に寄り添って、全力で楽しもうとする。その瞬間だけでも、私は作者の最前列のファンになる。

 そもそも観たいと思った作品は、観たいと思ったそのときにある程度のハードルを越えてくれているはずだ。少なくとも過去の私が「いい」と判断したのだから、それを肯定的にみないというのは過去の私に対しての裏切りにもなる。

 私は私を否定したくない。普段後ろ向きだから余計に肯定できるところは肯定していきたい。

 もちろんそれでもつまらないと思う作品がないわけじゃない。合わないことだって存分にある。
 そういうときはちょっと否定的な気持ちにもなるけれど、できるだけ肯定的にみようとしていたことで「それでもだめなら仕方ないよね」と諦めというか、見切りというか、そういうものをつけやすい気がしている。

 脳の言語化できない部分でみようよ。その世界に没入しようとしてみようよ。みおわった後、もしかしたら世界がもうちょっと鮮やかにみえるかもしれないから。

(1,238字 執筆時間1時間半くらい)

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