寒くなってからここ数日、同居者親子が姿を見せない。心配だ。(蜘蛛)

どこ行っちまったんだよ。割と本気で気に病んでいる。死骸も見ない。部屋の天井に蜘蛛がいることを最初に発見したのは11月9日の木曜日だった。それから彼女は幾度も私の前に現れた。13日の月曜日にはカーテンで出会った。ミニマリストを自称するほどではないが、整理整頓されて物が少なく清潔な私の部屋の色味は明るい。午前中であり、晴天だったため外の光も差し込んでいて、対照的に黒い彼女は、かなり小さいながらもよく映えていた。そして、その日の夜のことだった。ホワイトの眩しい電気スタンドだけが照らす中、机に向かっていた私の視界の端で、透明な極小の何かが動いた。思わず手を止め、注意を向けた。すると、一匹の子蜘蛛が垂直な壁を登っているところだった。私は咄嗟に写真に収めようとしたが、最新型でもないスマホのカメラでは到底、克明には撮影できなかった。白い壁紙に影が映り込むだけの画像が撮れた。翌日、14日の火曜日、天井から母蜘蛛が落ちてきた。かわいらしい音だったと思う。眺めていると、一分もしないうちに、彼女は信じられないジャンプ力を発揮し、壁に飛び移った。それが、最後に見た彼女の姿になるとは、思いも寄らなかった。以来、一度も目にしていない。これを書いているのは日付も変わった18日の夜中だが、朝になれば、ひょっこりと再び顔を見せてはくれないだろうか。途端に冬めいてきたのは12日のことだった。急激な寒さに私は震え、たまらず、ひとり、暖かい布団を用意した。一方で、彼女たちはどうだろうか。自己中心的な私に向けて放たれた、彼女たちの、庇護を求めるサインを、私は見過ごしてしまったのではないだろうか。16日、いやな想像がよぎった。母蜘蛛である彼女が殺されて、ひっくり返っている想像だ。「殺されたらどうしよう」、ひどく勝手な心配だ。彼女たちは蜘蛛であり、私は人間だ。私という人間は人間の住居に暮らしている。彼女たちは侵入者だ。虫を食べてくれる益虫という側面があるからといって、生かしておく義務はない。殺したり、追い出したりできるチャンスは何度も訪れた。なぜ私はしなかった。私が信心深い性格だからか。阿呆臭い。彼女たちにとって、この家にどれだけの食糧があるというのか。頻繁に掃除される屋内に、どれだけの虫が湧くというのだ。私は優しいふりをして他者をみすみす殺す偽善者だ。忙しさにかまけて、大事なものをないがしろにする。それでも地獄に落ちた時、天から蜘蛛の糸は垂らされるだろうか。願わくば、彼女たちに関する思い煩いが、杞憂でありますように。すべてが取るに足りず、下らない妄想でありますように。彼女たちと私が、これからお互いに別々の道を歩めますように。いつまでもあの黄色いくちのことを、忘れられないままでいるわけにはいかない。

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