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思考回路の定期点検【ノートが終わらない人】



noteを暫く開いていなかった。

「書きたいテーマが山ほどあるな…note始めてみるか」と意を決して開設してみたものの、書いては下書きして消して、中々の長い時間が空いて、

言い訳としてはここ暫くは、嵐とまでは行かないまでも生活の大波が繰り返し押し寄せて
常に船酔いみたいな状態で生きていた。

色々あった分書きたいネタばかりがただただ溜まって、この時期整理前の領収書の山を眺めるような気分(事業主でもないので医療費と保険くらいしかやらない知れてる作業なのに毎年腰が重い)。

昨日今日と息子のお熱で仕事を休み、トロンとした子を膝にずっと抱いたまま敷布団と化していて
その合間に久しぶりに書いています。


noteを始めた時から、テーマ毎に定期更新するぞ!と意気込みながら、実際どうなるかは薄々想定はしていた。

そしてやはりこの感じ…

思い当たる節しかないので、ずっと頭にあった自論をつらつらと書き出してみる。


「ノートが終わらない人」

私は子供の頃からノートが終わらない人で
ノートを取る機会が学生時代からめっきり減った今も、根っこの性質が変わらない。


終わらないっていうのは最後のページまで使いきれないって意味で(今は文具の、紙の「ノート」の話をしています。note内でややこしい…)
これは割と人の性格とか特性をよく表している気がしている。


例えば学校のクラス内や、会社の部署内で
「ノートを使い切れる人」
「ノートを使いきれない人」
でグループ分けしたら

何かこう、各グループの人々の共通点や新たな一面が見える気がして。
(すみません
具体的に何が、までは考えていないです)

今後の人生で万が一そういう機会があれば研究してみたら面白そうなんて妄想だけして、
サンプルが1人だけの浅い自論です。


サンプル、「自分」


例えば学生時代のノート。

4月なんかに新しいノートをおろして、最初は綺麗に丁寧に書いて
授業が進むに連れて(丁寧に書くの大変…読めたらオッケー)って雑になっていくまでが、寧ろ健全に学生していた証なんじゃなかろうかとすら思えるくらい
ほぼ全員の記憶にある経験では…。

私はそうなった途端に、0からみっちりやりなおすか、諦めて早く次に行きたくなる人だった。

文字は丁寧に書き続けられても、自分で決めたフォーマットが崩れ出すと
「あぁ、もうダメ」と。

流石にその度ノートを買い換える訳にもいかず、早く変えたいなーと思いながらもその学期間は使い続けるのだけれど。

文字の丁寧さだけじゃなくて、色分けだとか段落だとか
ノートを取る目的以上に、「こうするべき」と最初に手段のルールを完璧に決めてしまう。


そしてそのルールを継続することが難しくなった途端に、そのノートは目的を果たす前に「失敗」として投げ出したくなる。


ノートによってインプットとアウトプットを繰り返すことと、それによって得る知識が一つの成果なのに
目先にある今書いているページを成果として完璧に仕上げようとしている。

そうやってそもそも手段と目的を履き違えているってのもあるし、
自分の決めたルールを完璧に続けられないとそれは失敗だという意識が、本当に気づかない内に心の底にずっと居る。

他に例えば、

スケジュール帳
日記帳
プリクラ帳
スケッチブック
クロッキー帳
試験勉強ノート

今ではSNSのアカウントも近しい役割を担っている。


確かに私のノートはずっとどれもそれなりに綺麗だった。

綺麗で、整っていて、それでいて終わらない。

整ったページのあとに白紙が続く使いかけのノートが今この家にも沢山ある。

皮肉なことに、私が魅力的に感じて憧れるのはそれとは真逆の、有機的なノートなんです。

その人特有のクセのある筆跡や走り書きや落書きがページにギッチリ詰まっていたり、点在したりしていて
時にサボったスキマがあったり
ノリやテープや不揃いな付箋が貼ってあったり
マーカーが一部裏移りしていたり
湿気を吸ってナミナミのページがあったり

フォーマットなんてあったりなかったりで良くて
テーマもてんでバラバラで
鉛筆だったりインクだったりマーカーだったり
きっとその時手近にあったペンを手にとって書いていて


ブワッと嵩が広がった、最初から最後まで思考を辿っているような有機的なノート。


幼馴染のプリクラ帳

上司の測量野帳

保険の営業マンがふと開いたスケジュール帳

無我夢中で頑張った大学受験の何十冊ものノート


これ、自分の実家の引き出しに未だ残っていて
見返して自分もこんなノート書けてたのか、って驚いた。

体裁とか人目とか何一つ気にする隙もなく、
夢に向かってひたすら数式や解説を書いて何度マーカーを重ねて何度もめくられたノートは
今見ても魅力的な佇まいをしている。

(今でも唯一仕事のノートだけはそんな風に使えているのはそれをツールとして夢中で使ってるからなのかも…と思っている。)


意識すると遠のく「なりたい自分」

そこまで分かっててなぜ私は「ノートが終わらない人」のままなのか。

私は誰に向けて綺麗にノートを作ろうとしているのか…と常々感じているので、
もっとノートは自由でいいんだ!と、そういうメソッドの本や記事を読んだりしている。

そこに書いてあるのは、

一旦やめたノートをまた始めてもいい
テーマはブレてもいい
最初のページから使い始める
など。

書き出してみると当たり前のことを、こうやって誰かの助言を見てやっと気づくし、

わざわざ意識しないと難しい。
意識すると尚難しい。(無理やん)


結構自分の色んな性格や性質が、このノートの使い方に表れていると思っていて
自分の性格を表す一番外側の大きな括りが、
「ノートが終わらない人
(ノートを使いきれない人)

「ノートを使い切れる人」や、「終わったノート」にわざわざ憧れを抱いて意識的に目指しているあたりも自分らしい、ちょっと面倒くさい頭の中って感じがしている。

思うがままにペンを走らせることができない
何事も下書き必須
新しい物事に気合いを入れすぎる
ルールや体裁を重視する
几帳面で面倒臭がり
凝り性で飽き性

この生き方を変えたくて自由や継続を意識するけれど、意識するほどに自由とは程遠いぎこちない動きを繰り返している。

そもそも「ノートを使い切れる人」のうち、そんなどうしようもないこと意識している人の方が少ないのでは。
ノートを書くことは当たり前に手段だから。


今の私が意識する程に辿り着けないあの有機的なノートに惹かれるのは、結局はその人の生き方に魅力を感じているのかも。

皆さんはノートを使い切れる人でしょうか。


生活の中で無意識に出来たかもしれない、貴方のその分厚く広がったそのノートにこっそり惹かれている人がいるよ、って話。(変態みたいな締め方をしてしまった)


一定数居るであろう、人のノートが好きな人に

だからって人のノートをまじまじと覗き見る訳にもいかないので
そんな欲を満たすために、私が定期的に見返している本を2冊。






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