見出し画像

『散華』

 水蒸気はいったん天に昇り、南へと真っすぐな白線を引いて流れていた。
 桜島は今日も生きている。今朝の風予報では桜島の灰が市内に降る可能性はなさそうだったので、フミヨはベランダに洗濯物を干して家を出た。よその県ではそんな予報は流れないことを、フミヨは高校を卒業してから知った。灰の心配がなければ面倒はひとつ減るのかも知れないが、だからといって桜島がない鹿児島なんて考えられないと、フミヨは思う。
 今日の桜島港は、乗船待ちの車が普段より長い列をなしていた。こなれた係員に従って車を進めれば問題はないはずだが、慣れなければやはり戸惑うもののようだ。前の県外ナンバーは発進やブレーキの感じからどうも、フェリーは初めてというふうだ。そこへ行くと私たちは毎日乗っている常連である。スイスイと車ごと船に乗り込み、定位置に納まるとキュッとタイヤを鳴らして車を停止させた。24時間稼働している桜島フェリーは、市民の足という言葉がピタリとくる。概ね15分置きに出航しているため、いちいち時刻を確かめなくともさっと乗れる感覚はバスにも近い。
 今朝の太陽は桜島を優に越えて、すでに空高く昇りつつあった。
 「ゴールデンウィークでもないのに今日は乗る人が多いわね。まさかみんな、私のためにきてくれたのかしらん。うふふ」と助手席の母、悦子はそう冗談をいって笑った。
 南の暖かい風のように大らかで、誰とでもすぐ仲良くなれる悦子だが、とりわけ今朝はいつもより口数が多い。二人は桜島フェリーの船内でうどん店を切り盛りしている。悦子はある日突然、何十年と続けたこの店を引退し娘に譲るといい放った。今日がその日だった。
 「売店の横にポスターが貼ってあったのを見なかった?今日は夕方からフェスってやつがあるの。音楽のお祭りみたいなものだよ」
何にせよ、桜島に人が来てくれるのはうれしいね、と悦子はいって桜島がある方角へ顔をやった。
 いかにも客商売向きな悦子に対して、フミヨは正反対のタイプだった。明るくてなんでも器用にこなして、友人も多い。そんな母を恨めしく思った時期もあったが、一度結婚して世間がわかるようになったのか、または単に年をとったからなのか、この頃ではだいぶん理解できようになってきた。親戚筋が集まると場を和ませ、難しい話もなんとなくまとまるのは、だいたい母のおかげだった。小さい頃、病に倒れた父は寡黙な人だったと記憶している。
 フミヨは箱バンの後ろのドアを開けた。うどんのスープが入ったポリタンクと、麺や天ぷらが入ったケースがいつもの場所にある。大股で歩み寄って、まだ温かいポリタンクを両の手に提げた。動くとうどんのダシがたぷんと揺れ、カツオブシの香りが立ち昇ってくる。今日も手が千切れそうなほど重い。すぐに運びたかったが母の行く手を遮る気にはなれず、悦子が動き出すのを待って、後ろから鉄製の階段を上った。
 ブォーという汽笛は風と混じり合って、空に飲み込まれていった。続いて女性の声のアナウンスが出航5分前を告げる。それを合図に二人はシャッターを押し上げ、カウンターだけのうどん店を開けた。
 鹿児島港から桜島港までの15分間だけ営業するうどん店は、八幡うどんという名があるのに店の名で呼ぶ人はほとんどいない。皆、フェリーのうどんという。
 店の前にはすでに客がちらほらと集まっていた。お待たせしましてすみません、と悦子は愛想のいい笑顔を投げかける。常連客にも今日が初めての観光客にも同じ値の笑顔だ。フミヨは厨房に入ると手早く作業に取りかかった。
 「いらっしゃい。今日はかけ?」と悦子は明夫を認めていった。
 「さすが、えっちゃん。昨日は焼酎飲みすぎちゃってさ」。
 メニューはかけか天ぷら、肉の3つなのだが、悦子は客の顔を一目見るだけで何を注文するかほぼわかる。がっつり食べたそうな顔をしている人は、だいたいが天ぷらうどん。給料日になると肉うどんがよく出るらしい。
 「えっちゃん、今日で最後なのかあ、寂しいなあ」。
 明夫にとって悦子は母親ぐらいの年なのだが、ずっとえっちゃんとよんでいる。
明夫は天ぷらうどんかかけが定番だ。天ぷらうどんには、小さなエビのかき揚げがのるのだが、これがだしと一緒になるとなかなかうまくて腹にもたまる。現場監督は動かないように見えるが、意外と腹が空くからこのうどんがありがたいんだという。明夫は足を引きずりながら水をくみにいき、ずっとおれの朝飯はえっちゃんのうどんやったな、といった。足は若いときの現場事故が原因らしいが、桜島の溶岩が落ちてきたというのが持ちネタだ。県外客はさすがに最初ギョッとするらしい。
 フェリーはフェスへ向かう客でほぼ満席で、いつもは見える海があまり見えない。間もなくビーチにいくようなラフな格好の若者たちがガヤガヤと入ってきた。ガイドブックで知られるようになったフェリーのうどんをせっかくだから食べようというようだ。
 フミヨは人数をざっと計算して、やや平たいうどん麺をザルに投げ入れ、ザルごと大鍋に投げ入れた。かけ、天ぷら、肉と注文が入れば、麺が温まった順に丼に入れて、具をどんどんのせては悦子に手渡す。かかる時間は1杯あたり3分もない。このスタイルは悦子が確立した。麺はのびず、かといって芯までしっかりぬくもっている。簡単なようだがタイミングは絶妙だ。
 ふたりは丼が足りなくなるのではと思うほどひたすら作り続けた。餞の日にぴったりだとフミヨは思いながら、あの日のことを思い出した。
 ずっとフミヨに弟子のように厳しくあたってきた悦子の様子が変わったのは、今年の初めだった。明夫がめずらしく人を連れてきた日のことだ。鹿児島では稀な寒い日だった。
 「どうもこの人がえっちゃんを捜してたから」
 明夫は心配そうに悦子の顔を覗き込んだ。
 「まさか道代ちゃん?みっちゃん?」
 学校の教師をとうに引退したという道代は女学校の同級生だった。モヘア糸で編んだマフラーを時折ひっぱりながら懐かしい話をひとしきりしたあと、二人の話題は戦時中のことになった。道代は実は語り部をしているんだけどね、といった。いつかあなたもと誘う道代に、
 「私はそんなに辛い思いをしたわけじゃないから」と悦子は短く、断りの言葉を口にしていた。
 「気持ちはわかるわよ。兵隊さんらに比べたらそんなに悲惨な目にはあってない。だから語る資格はないってね。でも違うのよ。今や一人でも戦争を知る人が必要なの。それも戦時中に普通の一般人だった人が語ることがとても大事なの」と道代は返した。
 店の客が二人の会話に惹きつけれらていることに悦子は気づくと、破顔の笑顔を取り戻して
 「まあ、それはともかく。どうしてここにいるってわかったの?」といった。
 「人づてに聞いたのよ、えっちゃんはフェリーでうどん屋をやりながら、待ち人を待ってるって」
 急に船内の音がかき消されたような気がした。フミヨがその話を聞いたのは初めてだった。
 あれ、どこでそんな話が出てきたの、と悦子はいい、そうねそうだったわ、忘れてたわ、あははと笑った。
 その晩、買い物をすませたフミヨが家に戻ると、食卓にちんまりと背を丸めた母の姿があった。手には一枚の古びたハガキ。フミヨはそれに触れることなく、ただいまと明るい声をかけた。
 ほどなくして、悦子はうどん屋が閉店したあとの時間を語り部活動に費やすようになった。そして最近、店を退くといったのだ。確かに足元がおぼつかないときもあった。しかしこの仕事は天職だ、船の中で倒れたら本望だといっていたではないか。ごく最近になってようやくスープに自信がもてるようになったフミヨだが不安は拭えない。そして道代が訪れた日のことを思い出し、誰かを待ってるんじゃなかったの、と詰めよったがもう十分なのよと返した。以来、今日までその話は話題にのぼることはなかった。
 
 いやー、さっきフェス?とかなんとかの若者がわんさか来たときはひやっとしたねぇという明夫の声でフミヨは我に返った。
 「前さ、修学旅行の男子高校生が来た時、えっちゃん少しナーバスになってたじゃん。フェスかなんとかの若い子たちが同じようなことをいわないか、心配しちゃったよ」

 ちょうど一年ほど前の話だ。桜島に修学旅行で訪れた生徒たちがうどんを食べながらこんな話をしていたのだ。
 「桜島の海軍基地跡っていうから、どんなにイケてるところかと思ったけど、しょぼかったよなあ」
 第二次大戦時代、桜島に米軍が上陸することを想定して日本軍は周到な準備を行っていた。桜島海軍基地跡は第5特攻戦隊の司令部で、人間魚雷の回天や水上特攻艇の震洋も在籍していたという。確かに現在は入口に追悼の意を込めた白い門と案内板がひっそりと立つばかりではある。
 その会話を聞いた悦子は一瞬で表情を失い、一点を見つめながら同じ丼を何度も何度も、真白な布巾で拭いていた。

 フェリーが桜島港に近づくと演奏の音が遠くから流れてきた。
 いつものことだが乗客も船員も下船準備のためいなくなり、船内には二人が残される。静かになったデッキに悦子を見つけてフミヨは近づいた。
 「本当にもう最後だね、お母さん、未練はないの?うどん屋に」といって、フミヨははっと自分がいったことに対して息を呑んだ。
 未練ねぇと悦子はいって
 「昔話を聞いてくれる?おかあちゃんね、昔、若い青年とお別れしたことがあるのよ」
 「待っている人ってその人なのね」
 悦子が遠い夏の日に別れた青年は、桜島が任務地だった。戦後になってその計画は知れ渡ることになったが非道な任務には耳を塞ぎたくなった。悦子は道代に誘われた語り部の活動を通じてその彼が戦死したことを知ったのだった。
 「いやぁね、うどん屋を始めたのは、食べるためよ。でもこう、毎日桜島へ向かっているとね、彼のことを思い出さずにはいられなかったわね。あの人にもね、あんな青春を送らせてあげたかった」
 
 悦子はポケットから黄ばんだハガキを取り出すと、表面を手で一度撫でてまた胸にしまった。そして両方の手を重ねてから、そこに何かがあるかのようにフーッと息を吹きかけて、うどん屋から足を洗って語り部専門に転職だわ、と笑った。桜島の奥のほうからは予行演習らしい花火の音が聴こえてきた。

                                 おわり


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?