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『デカ弁物語』(仮)

 特急列車がかろうじて日に2本停まる温泉街の、駅前の「デカ弁」で私は働いている。元は持ち帰り寿司チェーン店だったが、2代目オーナーの佐々木さんは契約更新をせず、建物を買い取って居抜きで店を始めた。人手不足で佐々木さんが厨房に立ち始めたのは間もなくのことで、料理センスがあるのかデカ弁はそこそこ繁盛していた。

 私は半年前まで、仕事帰りに夕飯の弁当を買いにくる客だった。生真面目な両親に育てられたせいか引っ込み思案で、社会人になっても人前でうまく発言できなかった。その場で言葉を思いつくことができず、後からああいえばよかった、と思うことが常だった。一言も発言できない社内会議が5回ぐらい続いた日、店頭で見た「レジ募集」というチラシを指差して、佐々木さんに声をかけた。そして翌日から働くことになった。

 連休の忙しい日、厨房を手伝おうとしたことがあった。私の動きをしげしげと見ていた佐々木さんは「出口さんは料理しなくてもいいと思うよ」と言い、以来、私は売り子専門となった。そして私は自宅で『三角屋根の売り子さん日記』というダイアリーをつけることにしたのである。タイトルは店の建物が媚びを売るような三角屋根であるところからとった。
 レジしかやらないとなるとやることは限られていて、ピーク時間を過ぎれば私はずいぶん暇だった。
 「幕の内はまだある?」
 「はい、まだあります」
 「じゃあ、1個」
 「ではお会計を」
 短いやりとりを終えると、畳1畳分ほどしかない狭い店内で私はお客さんと向き合う。間がもたないので次のお客さんが来たようなフリをして、背伸びしてドアの外を見たり、電話をとったり置いたりした。すると沈黙に耐えかねたのだろう、お客さんたちのほうから、少しずつ話の口火を切ってくれるようになった。

 はじめは天気やニュースの話だった。私は誠実な相槌には自信があったので、うんうんと頷いて聞いていた。しばらくしてまたお客さんたちが徐々に進化していった。毎日のように来て天気の話ばかりするのも変だと思ったのか、またはニュースを毎日チェックするのもお互いにキツイと思ったのか。みんな一様に少しずつ、世間話から逸脱していき、だんだんと個人的な話をするようになっていった。「初デートでドライブに誘うのってどう思う?」と訊く細身のスーツの若者。「結婚経験は4回って言ったら驚く?でも離婚はまだ3回よ」と笑う髪をふんわりカールさせた初老の女性もいた。

 次第に私も少しだけ声に出して返事が返せるようになっていった。なるほどそうだな、と思ったときは「そうですね」。それってもっと知りたいな、と思ったときは「いいですね」。よくわからないときは「そうなんですか」。たった3パターンではあったが3つあれば対話は上手く回った。

 注文が幕の内弁当だと話題はだいたい一つで納まる。焼きそば弁当や高菜弁当だと、調理にプラス3分ぐらいかかるから違うエピソードがもう一つ入る。慣れた人になってくると、
「で、こないだの続きなんだけどね。ここからがいい話なのよ」と言いながら続編を聞かせてくれたりもする。佐々木さんは「出口さん来てから、手がかかる弁当の注文が多くなったなー」なんでだろうねと言った。
 私は家に帰ると聞いた話を『三角屋根の売り子さん日記』に綴った。そして妄想した。面白い返しができる自分を。でも結局思いつくのはだいたい帰り道に電柱を数えながら歩いている時か、ベッドに入ってからだ。ものすごい返しを思いついた時には、日記に返信するように書き込んだ。

 そしてこの春のこと。あのウィルスがこの温泉街のそばにもやってきて、佐々木さんと私とお客さんと店を、違うものに変えてしまった。ニトリで買ったビニールを張り巡らせた店内は、工事途中の宇宙船のようになった。

 マスクをつけ、その上からフェイスシールドをかけた私はさながら違う星からやってきた宇宙人である。いらっしゃいませというと、シールドが曇る。互いにその姿で佐々木さんと話してもクスっとも笑わない自分が不思議で、気味悪い。目に見える変化はまだいい。怖いのは気づいたら取り込まれてしまっていることだ。私たちは次第に蝕まれていって、いつの間にか手足を縛られたような感覚を味わっていた。マスクとフェイスシールドのせいだけではない息苦しさを、二人とも感じていた。
 「お客さんとの話は必要最低限、不要不急な会話はなしにしよう。これでコロナを出したらウチは店をたたむしかないから」と佐々木さんは言った。呪いたくなったのはコロナだけではない。給料をもらうだけの私の気楽な立ち場もだった。

 万全の体制を整えて営業を再開した日、初めてのお客さんがやってきた。注文を受けると以前と同じに、空白の時間が生まれた。目と目を合わせるお客さんと私。しかし見つめあっての話はいけない。そのまま互いに考え事があるフリをしてごまかした。次に来たお客さんは話せないのが残念なのか、一瞬目を合わせただけで、あとは窓の外の止まない雨を目で追っていた。
 「スイカって梅雨の前に食べるのが美味しいんだよね、僕はもう3回食べたよ」
 「一生に一度ぐらい夏のドレスをオーダーで作っても許されると思わない?」
 ウィルスのことがなければこんな話を聞くことができたかも知れないのに。
 ある夕方、佐々木さんは伝票に目を落としたまま、くぐもった声で言った。「客数は減ってるし、客単価も下がってる。積極的に売り込みもできないからなあ」。

 初めて知ったのだが、私と半日交替でレジに立つ女性は、カウンターの上のコロッケやサラダの惣菜パックを上手に客に薦めて売りさばいているという。そのお陰でデカ弁はなんとか黒字を保っていたことも知った。私ときたらそのパックの山は好きな人が勝手にとっていく程度のものだと思い込んでいた。

 私は自宅で策を練った。日記帳の余白のページを開き、お客さんに惣菜パックを『買ってもらう方法 喋らない』と書き入れて、考えを巡らせた。
 翌日、馴染みのお客さんがやってきた。
 私は口頭で注文をとると、おもむろに両の手を出してシュッシュッと消毒し、顔の前で両手を動かした。「こちらもいかがですか」。手話だ。私は何を期待してたのだろう。手話が誰にでも通じるはずはない。お客はポカーンとしていた。視線を感じて後ろを振り向くと佐々木さんも「え?」っという顔をしていた。

 失敗したその晩、また私は考えた。今度はスマホを取り出して『声を出せない 話す 方法』と検索ワードを入力した。画面に散らばる『筆談』の文字にこれだと思った私は、翌日、出勤前に百均ショップに立ち寄って大きな付箋を手にして店へ急いだ。
 最初に応対をしたのは夕食の弁当を買いにきた、私が密かにマドンナと呼んでいた妙齢の女性だった。最小限の言葉と音量で注文のやりとりをした後、厨房に通してからシュッシュッとやり、エプロンのポケットから付箋をとりだして、サインペンで文字を書いた。
 「今日はポテトサラダがおすすめです」
 書いた後、あっと気づいて「が」のところに線を引き、上に「も」と書き足した。女性はうなずくと、ペコペコと音がなるパックの縁をつまみ、レジ前に置いた。売れた。嬉しくて少し鼻がツーンとなってしまった。
 そこから付箋作戦は続いた。
「ワカメとキュウリの酢の物、できたてです」
「今日の幕の内はブリの照り焼きです」
「唐揚げ弁当は5分待ちです。でも揚げたては抜群です」
 自然と紙の上でなら長い言葉が出るようになっていった。
  めずらしく梅雨の晴れ間が見えたある昼下がり。のり弁の大盛りが定番の、ニットキャップの若者がやってきた。私はもう慣れた手つきで付箋に言葉を書き入れてハラリと目の前に出した。すると若者もポケットに手をやり、付箋を出した。そこには、
 「もうすぐ夏休み。早く大学行きたい」
 と書いてあった。
 私もまた付箋に手をやり、
 「わかるよ、お互い大変だよね」と書いた。付箋を何枚かやりとりしながらより弾んだ会話ができるようになっていったのだ。
 もう八月になろうかとしていた頃、いつも同じ弁当を2つ買って帰るおじいさんが一週間ぶりに来店した。
 「今日はお弁当ひとつでいいのですか」と私はピンクの付箋にサラサラと書いた。するとおじいさんは震えたか細い文字で、
 「ひとつでよくなりました」と書いてよこした。
 私は何を書けばいいのかわからなかった。何もできないままおじいさんに弁当を手渡すと、
「何も書かなくて大丈夫ですよ。大変お世話になりました」と書いた付箋を置いて、静かに姿を消した。

 それから付箋はどんどん消費されていった。1日で1袋使い切るのはザラだった。帰宅した私は書いた付箋を『三角屋根の売り子さん日記』に張った。パンパンになって膨れ上がると、佐々木さんに断ってデカ弁の壁に貼った。フランチャイズ時代の名残である黄とオレンジ色のタイルの間にヒラヒラと貼り付けられた付箋。交わされるはずだった声が目の前で躍っている。

 この壁がSNSで話題となったそうで、ひと目みようとお客さんが増えた。伴って店の売り上げは増え、佐々木さんは隣駅の新興住宅地に新しい店を出してもいいかな、なんて冗談なのか本気なのかわからない戯言を言うようになった。

 そんな夢を自由に語れるようになるのが、今の私の夢である。(おわり)
 
 
 


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