神の時代、人間の時代

「美しい都市パリ/全能なる神の時代/時は1482年、欲望と愛の物語/大聖堂の時代が訪れた/今や世界は新たな千年を迎え/天の果てに至りたい人間はガラスと石の上に彼らの歴史を刻む」

フランスのミュージカル<ノートルダム・ド・パリ>のオープニング曲『大聖堂の時代』の歌詞の一部である。1998年にフランスで初演されて以来、全世界的に数千万人に愛されたミュージカル<ノートルダム・ド・パリ>は、俳優たちの躍動的な群舞と美しく強烈な曲が印象的なミュージカルである。このミュージカルは、1831年に書かれたヴィクトル・ユーゴの小説に基づいて作られた作品である。

時は1482年、フランスのパリだ。ノートルダム大聖堂の司教である『フロロ』は奇形的な容貌のせいで両親に捨てられた『カジモド』を忠直な鐘突きとして育てる。そしてある時、フロロ司教はジプシーの女『エスメラルダ』に惚れてしまう。宗教に帰依した彼が一介の異教徒の女に心を奪われたのである。

そして『カジモド』に彼女を拉致することを命令する。『カジモド』が彼女を拉致しようとした瞬間、近衛隊長『フェビュス』がカジモドを逮捕し、彼女を救う。ところが『フェビュス』も『エスメラルダ』を見て一目惚れしてしまう。

『フェビュス』に拉致されて刑具に縛り付けられた『カジモド』を人々は嘲笑し、しかも自身の罪がばれるかと思って『フロロ』神父も知らんぷりをするが、苦しむ彼に水を渡すのは、驚くべきことに自分が拉致しようとした『エスメラルダ』であった。それで『カジモド』も『エスメラルダ』を愛するようになってしまう。

このようにしてノートルダム聖堂の鐘突きである『カジモド』、大聖堂司教である『フロロ』、近衛隊長『フェビュス』、三人の男がエスメラルダを愛する妙な関係が演出される。聖職者である『フロロ』は一生神様に仕えることを誓ったし、フェビュスは結婚を約束した女性がいた。だが、彼らはそれまで築き上げた名誉と信念を捨てて、欲望に屈服してしまったのである。

自分を助けた『フェビュス』に心を奪われた『エスメラルダ』は彼と肉体的関係を結ぶことになり、これに対し欲望と嫉妬に目がくらんだ『フロロ』神父は『フェビュス』を刃物で刺す。そして『エスメラルダ』に濡れ衣を着せる。

しかし、『カジモド』は『エスメラルダ』をノートルダム聖堂に逃がす。だが、そこには『フロロ』神父がいた。彼は『エスメラルダ』のもとを訪れ、彼女の命をだしにして愛を強要する。もはや彼には社会指導者としての体面や聖職者としての倫理のかけらもなかった。ただ1人の女に向かう男の欲望以外には何もなかった。

しかし彼の欲望は成されない。いっとき愛をささやいていた彼女の救世主『フェビュス』が彼女を逮捕しにきたためだ。『フェビュス』はフィアンセに許してもらうことを条件に『エスメラルダ』を消すことをフィアンセに約束したのだ。『フェビュス』に捕えられた『エスメラルダ』は結局、絞首刑に処される。

ノートルダム聖堂でこのすべてのことを見守った『カジモド』は、彼女を救わなかった『フロロ』神父を殺害してしまう。そして『カジモド』は『エスメラルダ』の死体を抱いて泣き叫ぶ。そして響く切ない歌。「踊ろう、エスメラルダ. 歌おう、エスメラルダ...」これはミュージカルのエンディング曲である。

このようにミュージカル<ノートルダム・ド・パリ>は『エスメラルダ』の死で幕を下ろす。 だから<ノートルダム・ド・パリ>と言えば、大抵ジプシーの女『エスメラルダ』とせむし男『カジモド』の切ない愛の物語が思い出される。

だが、このミュージカルは単純なラブストーリーではない。もう少し掘り下げると、別のストーリーが読み取れるからである。

このミュージカルの背景になった1482年は、印刷術をはじめとする科学が発展し、宗教中心の社会から人間中心の社会へ移る激変の時代であった。まさにイタリアで始まったルネサンスの風がヨーロッパ全域に広がった時期であった。

それで、ミュージカル1幕にはこの物語のストーリーと全く関係ない『大聖堂の時代』がオープニング曲に出てくるし、2幕は『フィレンツェ』という曲で始まる。『小さいものが大きいものを破壊し、グーテンベルクの印刷術を第2のバベルの塔』と歌うこの曲はミュージカルのストーリーと全く関係がない。『フィレンツェ』はルネサンスが起こったイタリアの都市であった。

これを見ると、曲の意図が明らかになる。すなわち、神の御言葉が中心である時代が次第に暮れていき、人間の感情と理性が中心になる時代が徐々に近づいてくる時期だということを示しているのである。『フィレンツェ』の歌詞の中の『小さいものが大きいものを破壊する』という一節が暗示するように、神中心の社会、すなわち大きいものが人間中心の思考、つまり小さいものによって破壊されるという意味と解釈することもできる。

このように<ノートルダム・ド・パリ>は中世の神中心の社会から、人間の理性と感情が中心の社会に移行する時期を扱おうとした。ヴィクトル・ユーゴはこのような時代の移行があらがえない『宿命』であることを歌おうとした。ヴィクトル・ユーゴが小説を書く時、ノートルダム聖堂に彫られた『アナンケ(ANArKH)』という字から霊感を受けたという。これはギリシャ語で『宿命』という意味である。

数百年間、神が中心だった社会が人間中心の社会に変わる過程で摩擦は避けられない。それゆえ『フロロ』神父が象徴する意味は必然的に大きくなる。宗教的信念と個人の欲望の間で苦悩したフロロ神父は、変化する時代の葛藤を象徴しているからである。また『エスメラルダ』は時代の変化の中で宿命のように犠牲になるしかなかった人物を象徴すると見ることもできる。

ノートルダム大聖堂で火災が発生した。数多くの人々が火災現場を見つめながらやるせなさを吐露し、涙を流した。『カジモド』の胸も自身の唯一の安息の場であったノートルダム大聖堂の鐘塔が火災に崩れる様子を見て共に崩れてしまったことだろう。

だが、彼らにできるのは『聖母マリア』という曲を歌って祈ることしかなかった。ノートルダムは『私たちの女性』という意味で『聖母マリア』を象徴する。ミュージカルで見れば神々の時代を象徴する建物ということになる。

英国のブレグジットを取り巻く混乱、経済的不平等に腹を立てたフランスの黄色いベストのデモ、これら全てのものがもしかしたらルネサンスほどではなくても、現時代が激変の時代であることを示しているのかもしれない。このような激変の時代に発生したノートルダム大聖堂の火災、これを見つめて祈るフランス人の姿を見ながら、もしかしたら彼らは神々の時代をもっと恋しがっているのかも知れないという考えが頭をかすめた。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?