ユダヤ人にまつわる貸金業の歴史が教えてくれる教訓

ユダヤ人に対する軽蔑と嘲笑

シェイクスピアの喜劇『ヴェニスの商人』は、アントニオが高利貸し業者シャイロック(Shylock)に借金をして、命を失うお決まりの話を扱っている。アントニオは友人バサニオがポーシャに求婚をする際に必要な旅費を用意してやるために、シャイロックから金を借りて、その担保として胸の肉1ポンドを提供するという証書を書く。しかし、金を返済できなくなったアントニオが命を失う危機に陥ると、男装をした賢い女性ポーシャがヴェニス裁判所の裁判官になって、「肉は取っても、血を流してはならない」という名裁判によってアントニオを助け出す。

この小説で悪人として登場する高利貸し業者のシャイロック(Shylock)は、ユダヤ人である。また、ドストエフスキーの長編小説である『罪と罰』でも『老婆』という高利貸し業者のユダヤ人が登場する。これらの文学作品の影響のせいだろうか。人はユダヤ人と言うと、よく高利貸し業を思い浮かべる。

実際、今日、ユダヤ人に対する嫌悪感は随分減ったものの、2千年前メシヤであるイエス様を殺したユダヤ人に対する反ユダヤ主義は、非常に長い間キリスト教社会に根付いていた。そのような嫌悪感は、最近になってロシアのポグロム(Pogrom)、ドイツのホロコースト(Holocaust)という悲劇に続くこともあった。ところが、このようなユダヤ人に対する軽蔑と嘲笑が西欧社会で蔓延したのは、彼らがメシヤを殺した民族だという宗教的な理由に加えて、彼らがほぼ独占的に貸金業(usury)を享受してきたという経済的理由もあった。

貸金業は、基本的にお金を貸して利子を受け取ってお金を稼ぐ為、お金がお金を創造する属性を持っている。ところが、聖書を見ると、ただ神様だけが命を創造することができたので、これらの貸金業は一種の神性冒涜に当たる仕事だった。だから、旧約時代には、出エジプト記22章25節の御言葉のように「あなたが、共におるわたしの民の貧しい者に金を貸す時は、これに対して金貸しのようになってはならない。これから利子を取ってはならない。(出22/25)」と教えた。このような聖句を背景として貸金業に対するキリスト教社会の嘲笑は、言葉で形容できないほどだった。

12 世紀、教皇庁は貸金業者をキリスト教式に埋葬することを禁止し、13世紀には貸金業者の遺体を犬、牛、馬の死体と一緒に穴に埋める程であった。14世紀にヨーロッパのペストの弊害が手に負えないほど大きくなった時は、ユダヤ人の貸金業のせいで神が憤って下した病だというキリスト教的信仰が広まり、その結果、ユダヤ人に対する公開的なテロ、つまり魔女狩りが行われたりもした。十字軍は戦争当時、ユダヤ人を異教徒と見なして彼らの財産を略奪し、残酷な反ユダヤ政策によってユダヤ人たちは通常の商業活動を行うことができなかった。

それで、ユダヤ人たちは、人の目につかない所に集まって住んだりした。一例として、1992年のオリンピックでファン・ヨンジョが金メダルを取ったスペイン・バルセロナのモンジュイック(Montjuic)という所もそのような場所の一つであった。ところが、1492年、新大陸が発見され、ユダヤ人の貸金業者の助けがこれ以上必要なくなったスペイン王国は、モンジュイックのユダヤ人を国外に追放してしまう。

長年にわたる貸金業に対する認識の転換による悟り

このように、ユダヤ人たちは世界のあちこちで言葉にできない虐待を受けて暮らしていたが、西欧人たちはイエス様を否認したユダヤ人たちは何をしても地獄に行く運命だと考えたので、どうせ地獄に行く彼らが神性冒涜に当たる貸金業を営もうが何の関係もないと考えた。

ところが十字軍戦争を契機に東西交易が活発になり、割引という貸金業と類似した新しい事業が生まれた。この事業に積極的に参加していたメディチ家をはじめとするイタリアの金融業者は、自分たちの仕事を正当化するために聖書の一節から自分たちの存立基盤を見つける必要があった。そして見つけた聖句がまさに箴言28章8節であった。「利息と高利とによってその富をます者は、貧しい者を恵む者のために、それをたくわえる」という聖句を用いて、義なることをするための利子受取は許されると自らを慰めたのである。

そのうち15世紀初頭にとうとう教会内から改善の声が上がった。フランスの神学者ジェルソン(Jean Gerson)は、「借入人を過酷に締め付ける目的で貸出する時」に限って貸金業は禁止されるべきだと主張した。そして100年余り後には、ドイツのエクス(Johann Mayer von Eck)という学者が5パーセントの金利は、人間が神様に許される合理的な上限だと主張した。すると金融業に手を出して大きな富を蓄積したメディチ家から輩出された教皇レオ10世は、若干の利子受取を合法化してしまう。

そしてさらに甚だしくは、1545年、スイスの宗教改革指導者であるカルビン(Calvin)は、返済能力がない気の毒な人は対価なしに助けてあげるべきだが、そうではない場合には、いくらでも利子を取って貸出すことができると結論付けている。当時、彼のこのような考えは、貸金業に対する新しい解釈を通じてカトリックの経済観を覆すものであった。そしてカルビンは人間が存分に働いて努力して、自分の利益を図ることは罪悪ではなく、神に対して当然すべきことだという道徳観を確立した。貸金業については、宗教改革に次ぐ主張だった。

しかし、中世から続いてきた貸金業者に対する汚名と濡れ衣を除いてくれた人は他でもない経済学者たちだった。アダム・スミス(Adam Smith)は、彼の著書『国富論』で、政府の高利貸し業に対する最高金利制限はむしろお金のない庶民がお金を手に入れられないようにして彼らをさらに苦しめるという副作用をもたらすとした。経済学者ベーム・バヴェルク(Böhm-Bawerk)は、利子というのは待機(時間)に対する対価だから、利子を受け取ることを恥じる必要はないとしたし、ケインズ(Keynes)は、利子とはすぐに使うことができるお金(流動性)を放棄したことに対する対価だから正当であるとした。

彼ら経済学者たちのおかげで、今日貸金業に従事している人たちは、もはや罪の意識に悩まされず、自分の職業を恥じなくなった。しかし、そうなるまでは非常に長い年月をかけて認識の転換が成される必要があった。

メシヤを受け入れずにユダヤ人が経験した苦痛の歴史が、生計維持のために仕方なく行なう必要があった貸金業を通じて表れる歴史によって、霊的な世界と肉的な世界が常にかみ合っていることを悟る。ヴェニスの商人で人情のない貸金業者シャイロックを裁いた賢い女性ポーシャのように、この世のすべての悪人たちに痛快ですっきりする霊的な忠告を与えるメシヤを待ち望む。

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