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ネコとの年月が私の歴史 (5)

Chapter 5
2+8=民族大移動


いつも読んで下さっている皆さま、スキ、フォロー、マガジン追加をして下さった方々、本当にありがとうございます。大勢のネコの話なんて、聞く耳を持った人はいませんでした、何年もの間。ですのでこれは note で、ここで読んで下さっている人のために書いています。それと自分が忘れないように、いつまでも其々の命と繋がっているために....


5匹の子猫達は無事に成長し、次の家でも家と外を満喫した。近所とのトラブルもなく、というよりご近所さん自体が殆どいなかった。ただし肝心の家の主がその物件を売る、というようなことになり、私達は一年後にはそこに住めなくなった。これだけの動物を連れて入居できる賃貸はあり得なく、それが一番の理由で再度アメリカに行くことになった。

犬とネコの全員を連れて行く、という私の決断は周囲を一人残らず驚かせた。当時の夫は、
「絶対に無理だ!!!!!」
を3か月間連発した。私の家族も猛反対だった。それだけの数を飼っているだけで気に入らない上、私のやる事は突拍子のないことづくめらしい。好きで苦しい状況を作っているわけではないのに、大変な時により事態を困難にしてくれるのはいつも私の家族だった。

(前)夫とはどうやっても平行線なので、動物を連れて行けないなら一人で(アメリカへ)行ってくれと言った。この辺りは人間の事情もあるが、日本ではどうやっても飼い続けることができないためにアメリカへ住むという成り行きだったので、動物を捨てることになるなら私にとってはアメリカくんだりまで行く必要はなかった。但しアメリカまで着いてしまえばどうにかなるだろうとは思った。大多数の意見は、

その犬や猫らをなんとかしろ!

というものだった。
なんとかとはどういうことか?
山に捨てて行けということか。
保健所へ連れて行けということか。

ところが彼らははっきりとは言わない。非常にありがた迷惑なアドバイスだ。はっきりとは言いたくないし、自分の手を汚すのはいや。でも助けてくれるわけでもなく、ただ好きか嫌いかを言うだけ。当時殆どの私の家族は一軒家に住んでいたのに引き取ってくれるものは一人もいなかった。

✴︎

この土地に住んでいた間、多くの捨てられた犬猫を見たし話も聞いた。都会から軽いドライブで来れるこの地には、捨て犬猫が溢れかえっていて、多くの住人が最低一匹の犬や猫を引き取っていた。ある明らかに輸入された洋種の猫は、捨てに来られた環境で食べ物にあり付けず、餓死した後、胃の中は土で一杯だったそうだ。山に連れて行けば動物だから生き延びるだろうというのは無知な人間の妄想だ。ある日突然野生の中で生きていくことは、人間と同様に、家の中で育った飼い猫には術がないのを、飼い始める前に知って欲しい。こういう動物は苦しんで苦しんで死ぬのだ。

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ノラ猫に恵まれた環境から引っ越せば、次の家の周辺にはノラ犬が時々来た。その中でもある時から定期的に見かけるようになったラブラドールリトリバーは、なんとも出来た犬だった。うちに犬も猫もいるのを知っていて、自分でバウンダリーを決めて、一定の距離以上近づかずにこちらを眺めている。(他でもなく食べ物を待っている。)その犬には相棒がいたが、一緒に捨てられた風ではなく、同じ境遇のもの同士一緒に生き延びようとしているように見えた。うちの前に現れた時は既にかなり痩せ細っていた。食べ足りていない牛や馬のように、あばら骨が浮き出ている。一度として吠えた事はなく、毎日同じような時間に現れてじっと待っていた。こういうのを目の当たりにするのは本当にいたたまれない。だがうちにはその頃犬が2匹とネコ8匹がいて、既に出来ることの限界を越えていた。

その犬はやがて妊娠した。不妊されないまま捨てられればメスなら当然の結果だ。身は痩せて骨はどんどん浮き彫りになっていくのに、お腹は大きくなっていった。ちゃんとごはんをあげていたが、足りなかったか、相棒が全部食べてしまうのか。。

そしてやがて姿を現さなくなった。小さなバケツに入れたフードがそのままになっていた。生きている限りそれはあり得なかった。

✴︎

そんなこんなで、動物達を全員連れて海外へ引っ越す旨を話した時、地元の知人達はとても協力的だった。

「そんなことをするのは千人に一人くらいだ。」
と笑いながら、色々助けてくれた人。

「4匹くらいもらってあげようか?」
と申し出てくれた人。4匹って、もらってもいいと申し出るには一般的にはもの凄い数だ。その人は裕福で私が常に瀕していた問題などとは無縁だったが、直前まで人に言えなかったいう事情もあり、その頃はもうピアノを売り払ったり、全ての段取りをつけていた後だった。

そうして無理は承知で進めた計画の最終段階、出発の時が来た。日本を出る時に飛行場で、海外旅行に行く風の女の子達がカートに乗ったたくさんの犬猫を見て寄ってきて、

「飛行機に乗せるなんてかわいそう〜!」

とか言うのだ。率直なところは、
「おめえら、こっちは遊びじゃないんだ。」
「この状況だったら、あなたには何ができるというの!?」
といったところだったが、私はこんな見知らぬ人に説明する時間的、精神的な余裕は持ち合わせていなかった。既にここまでが大変な移動で殆ど寝てもいなかった。

この大移動中最も好意的だったのは、成田の検疫で働いていた女性だった。数が数だけに手続きにおそらく1時間程を要してしまうから、前日に書類をfaxで送ってもいいと、わざわざ事前に知らせてくれたのだ。おかげで当日も手際良く、何の色眼鏡もかけずに対応してくれたその女性の善意による施しは今でも忘れずにいる。

困難だらけの大移動の最後は、ニューヨークの飛行場で締めくくられた。私が中型犬サイズのケージに4匹の猫を一緒に入れたことから、動物虐待者の扱いを受けたのだ。ケージの中では猫達は充分に立てる高さがあり、4匹が大の字で寝てもせいぜい雑魚寝(ざこね)という程度で、家でも丸まってそんなふうに寝ている。もちろん快適だったはずとは言わないし長時間我慢させたことは承知だが、それがその時点で出来る限りの策だったのだ。ところが向こうの検疫所では、

この国ではこんなことは許されないわよ‼︎

と吐き捨てられ、その場で30分間お説教を食らった。それでなくても航空会社との交渉に何ヶ月もかかり(最初はどの会社からも断られた)、やっと中型犬2匹を1つずつのケージ、成猫と子猫に分けた同じく中型犬サイズのケージを2つの、全部で4つの大きめのケージに入れて連れて来たことが、夫婦揃って家と仕事を同時に無くした当時の状況では精一杯のことだった。

肝心な時、いつも動物のことで瀕死の目に遭っている時、(前)夫は傍に居らず(その時も移民局へ行っていて)私だけが怒鳴られた。私はこのうえ動物を取り上げられたり罰金を課されたりしないように祈る思いで、その人間が気が済むまで言うことを黙って聞いた。そのどちらにも至らずに「釈放」されたことは不幸中の幸いだったかもしれないが、私はこの日少し死んでそこから全快することはついぞなかった。

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↑ メインクーンのキュロ
犬と一緒に散歩に行くのが好きで、いつも一緒に付いて来た。あまり好ましくないので(危ない)キュロが外出中にひっそり行こうとすると、目ざとく見つけて走って付いて来る。なのでその時は車の少ないショートコースへ。


再度アメリカに戻ると、2年近くは家またはアパートに閉じ込めっぱなしの完全な室内飼いとなった。毎日散歩に連れて行ってもらえる犬達にとってはなんてことはないが、ネコ達は缶詰となった。そして2年近くたってようやくカントリーに移り、ネコ達も再び土の上を歩けるようになった。7匹のミケティンの子供達はこの家と次のもっと敷地の広い家で13年間を過ごした。家はボロボロだったが、その間殆どの子達が動物らしく幸せに暮らし、そして淘汰されていった。

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もしもサポートを戴いた際は、4匹のネコのゴハンやネコ砂などに使わせて頂きます。 心から、ありがとうございます