「令和6年能登半島地震」に際し、改めて地方自治及び自衛隊の災害派遣について考える

明けましておめでとう御座います。
なかなか記事をあげられずに新年を迎えてしまいましたが、心機一転、執筆活動を行いたく新年一本目の記事を書いた次第です。

 「思い付くままに思いの全てを書き連ねる」
スタンスから、
 「言いたい事一つに多少色を付ける程度で”我慢する”」
スタンスにして、「書き終わらないので新記事アップ出来ない」との状況を脱し、兎に角、数を上げようかな、と今は考えています。


令和6年能登半島地震発災

先ずは被災された方々へお見舞い申し上げる。
人的・物的被害が最小限に収まる事を願って已まない。

元日の大きな地震災害と言う事もあって、自治体、消防や警察、自衛隊と言った災害関連で活動する公官庁なども対応に苦労している事だろう。
また、大規模災害に際しては、政府・官邸の危機管理能力が問われる事にもなる。

昨年末から続く政治資金収支報告書不記載問題がある中で、マスコミはまたぞろ”官邸の失態”を報道しようと手ぐすねを引いている事だろう。

ただ、メディア報道の受け手である一般国民の立場で、実際にメディア報道に接する前に知っておいた方が良い情報が幾つもある。
今回はそれを解説して行きたい。

※記事内容の信憑性について、最大限真摯であろうと思ってはいますが、あくまで素人である一個人のまとめなので、鵜呑み厳禁と言う事でお願いします。

「災害対応では、現場である都道府県の権限が非常に大きい」と言う事実

見出しの通りなのだが、これには戦後日本の自治形態について、
 「戦前回帰を最大限回避する制度設計」
がGHQの主導で決定された。

行き過ぎた”地方分権”の始まり

多くの日本人は戦前の政治体制と言うと、あたかも天皇による個人独裁をイメージしてしまうだろう。
それは第二次大戦と言う苦い経験から始まる戦争忌避が、「戦争を回避出来なかった戦前の政治体制」への忌避とも直結する。
そうなると、
 「戦前は天皇の言う事が絶対だった」
 「ならば、開戦は天皇が戦争を志向したからだ」
 「文字通りの意味で、戦争責任は天皇個人にある」
との短絡的思考へ流される人がどうしても多くなってしまう。
強烈な左派リベラルの闘士でもなければ、表立って天皇及び皇室に対する放言、讒言は憚られるものだが、上記のような理解をしている一国民にこっそり第二次大戦と天皇の戦争責任に関して質問すれば、実態よりもかなり大きな「天皇個人の過失」を語る事だろう。

私は別にこのような考えを持つ人々を糾弾したい訳では無い。
戦争忌避から始まって反動的に「戦前体制を強く批判する事が正義」と言うのが戦後の日本社会全般の在り方だ。
それは特にマスメディアにおいて顕著だった。
戦前の政治体制に対する正しい理解を得る機会がなかなか無いのだから、マスメディアが作り出す風潮をそのまま受け取り、事実であるかのように信ずるのは至って当たり前の事だ。
ただ、ある程度仕方ない事ではあるのだが、義務教育で歴史を熱心に学ぼうと思った学生ですら各種教材・参考書の類では幾ら学んだ所で戦前の政治体制の実態になかなか辿り付けない現状は、非常に問題が大きいと個人的に思っている。

立憲君主制は個人独裁と根本的に異なり、議会、政府の決定事項をお上へ上げて、時の君主に決裁を受ける形式で政治が行われる。
議会、政府中枢の意思決定手続きが民主的手段を含むのならば、それは自ずと民主主義に近しいものになる。
女性参政権は戦後になってからだが、1925年時点で日本における普通選挙は実現しており、日中戦争、太平洋戦争よりずっと前から民主主義に近い立憲君主制が実現していた。

GHQはこの事実を正しく評価する事無く、
 「戦中の政治体制は忌むべきもの」
との前提で制度改変を試みる。
その一つの核が、「中央集権から地方分権へ」だ。

地方分権と言うと今現在も常に政治改革の方向性の1つとして話題に上がり続けているが、実は古くて新しい政治課題なのだ。

「都道府県」を「米国の州」と見做すかのような権限付与

今では都道府県知事と言えば都道府県住民による選挙で公選されるのが常識だが、戦前はエリート官僚が任官されるポストであった。
その結果、都道府県の政治的振る舞いも当然ながら国の思惑に合致する方向に自ずと縛られるようになる。
戦後の行政改革では、知事を公選制とする事で地方自治の権利拡大へと舵を切ったのだ。

この事自体はより民意を反映させる地方自治の実現に寄与する事であり、私個人も望ましい変化だと考える。
だが、県知事が国との利害関係で真っ向勝負を挑むような状況になった場合、この調整機能が十分に用意されておらず、政治的空転を余儀なくされる事がしばしば起こってしまう。
これは地域住民にとっても、国民全体にとっても望ましい事とは言えない。

具体的には沖縄の米軍基地問題がそれに当たる。
また、静岡県・川勝知事一人の暴走によってごく狭い範囲のルートが掛かるだけのリニア新幹線工事が停滞している状況も同様だ。

感染症法における5類への分類変更で行政的な縛りが緩くなったコロナ対応においても、都道府県ごとにその解釈と具体的対応に大きな差異が生じ、地域格差が起こった事も記憶に新しいだろう。

こう言った事は、都道府県、それも知事個人へ与えられた権限の大きさに起因するのだ。
公選制で任命された知事の暴走は、国が直接的にその政治的判断を是正する手段を持たない。
国と都道府県、何方の判断が適正なのか、決着を付けようとすれば司法の場へ持ち込む以外に無い。
「都道府県知事はある意味、大統領に近い存在」と評価されるのはこのような理由からだ。

「都道府県が持つ権限を国が奪う事は出来ない」事が、緊急事態でしばしば見られる「国の初動の遅れ」の原因

別に”国”の立場を全面擁護するつもりなど、さらさら無い。
だが、そもそも国に権限が無い事をあげつらって、国の責任を糾弾するような行為は「百害あって一利なし」だ。

日本の災害報道において、マスメディアはしょっちゅうこの手の手法で「国の落ち度」を語りたがる。
マスメディアの不勉強に原因があるならまだ救いがあるが、「国の落ち度をあげつらう為なら手段は選ばなくて良い」かのような姿勢が見え隠れする為、マスコミ人に幾ら事実を伝えた所でこのような報道による扇動が無くなる事は望み薄だと私は考える。

他国との比較で、日本国の国家権限は非常に強めの制限が掛けられている。
多分、日常的に時事ニュースを追ってる人ほど、この話を聞いて驚く事だろう。
マスメディアは常日頃、日本政府による国家権限の拡大企図を語り、さもそれが恐ろしい未来を生み出すかのように誘導しているからだ。
だが、東日本大震災で明らかになったように、日本は個々人の財産権を余りに強く保護してしまっている。道路インフラの復旧を進める上で邪魔な放置された自動車を取り除く事すら出来なかったのだ。基本的人権の範疇にある財産権は、公共の福祉の観点で制限を受け得る。これは憲法でも明言されている。にも拘らず、それを具体的な法律に落とし込もうとすれば、国家権限の制限を是とし、我々こそが国民保護の代弁者であるとの左派界隈がこぞって反対し、その実現を阻止するのが戦後日本の民主主義だったのだ。

災害対応の自衛隊派遣要請に関しても、同じような問題がある。
左派界隈が余りに軍事力忌避を強め、自衛隊と言う存在自体を敵視した事から、自治体側の許可無しに勝手に活動を行う事はまかりならんと自衛隊法に入れ込んだ事から、災害現場の傍に居ようが自衛隊は必ず自治体からの要請を待つより無い時代がずっと続いて来た。
しかも、この「自治体からの要請」は「国からの出動要請」で上書きできないのだ。
「国」が「自衛隊」を使って「国民を弾圧する可能性」を完全には排除出来ないと言う、とんでもないロジックによって、長い事「国からの自衛隊出動要請」と言う手段は禁忌とされて来たのだ。
阪神大震災において自衛隊の出動要請まで非常に時間が掛かった事は良く知られているが、この原因を当時の村山首相(自衛隊反対の立場を長らく取って来た社会党党首)ひとりに求めるのは見立てのバランスを欠いている。
兵庫県知事からの出動要請自体も非常に遅れていた事、知事の意向を無視してでも国が自衛隊出動を命じる事など左派界隈の発想に無かったと言う周辺状況を正しく見なければ、この時の問題を適切に論じる事は出来ない。

近年の複数県に跨る大規模豪雨災害への対処として、国が自衛隊出動命令を出す事は可能となった。
県庁自体が機能不全に陥る可能性も考慮した上での制度改正であり、ある意味当然の変化だ。
だが、それでも「複数県に跨る」との条件が付いてしまう。
災害大国である日本において、局地的な大規模災害が起こる可能性は幾らでもある。
特に、北海道や沖縄など、地理的に他県と隔絶された場所を踏まえれば、「複数県に跨る大規模災害」との条件は不要に思う。
だが、これを安易に取り除こうとしない所に、時の政権の左派界隈への配慮が依然として残っている現状が反映されているのだ。

まとめ

国が日本人の生命財産を守る為に、自衛隊と言う組織を活用して全力を尽くそうと考えたとしても、そこに悪意を見出し、兎に角妨害する事こそが個人を守る事に繋がるのだと信じて疑わない左派界隈がいる。
彼らは何処までもより大きな足枷をはめ、自衛隊が自由に活動出来ない状況こそが真の平和に繋がると思い込んでいる。
そして、日本のマスメディアは長らくその界隈のよき理解者として、場合によっては彼ら自身が活動家として振舞って来たのだ。

彼らは国の災害対応を論じる時、
 「実際問題、国として何処まで出来、何処からは出来ないのか」
と言う現実を意図的に報じない一方で、
 「これも出来たのではないか、あれも出来たのではないか」
 「何故やらなかったのか?(「出来なかったのだ」との真実には視聴者・読者の思考が向かないよう留意しつつ)」
と国民へ訴える。
これが彼らの災害報道のデフォルトなのだ。

マスメディアの論点整理は、その欺瞞性に気付いていない国民にとっては事実関係を誤認する認知バイアスの温床にしかならない。
1月2日以降、政府対応含め、数多くの報道がなされるに違いない。
私は別に岸田政権が必ずやベストの災害対応を行う事を請け負うものではない。
何らかの不味い対応があった時には、事実それを報じ、批判されるべきだと考える。
だが、そこでマスメディア特有の先入観、世論誘導が施されている時に、それに気付ける国民が一人でも増えて欲しい、そう願っているだけだ。

批判ありきの政治論評で世の中が良くなる事は絶対に無い。

<了>

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