平和道とは死ぬ事と見付けたり(補講3)
本当は、
「平和道とは死ぬ事と見付けたり」
について、
上 ~ 武士道、武道から考える「道」的価値観
中 ~ 芸道から考える「道」的価値観
下 ~ 日本の「平和主義」が、無意識の「道」的価値観によって理想主義的、ファンタジーの世界に生きている状況
を論じるつもりでした。
ただ、「日本の平和主義」についての根本理念を語るだけでも相当な文章量となってしまった事から、基本構成とそれへの現実主義的立場からの批判を別口で「補講」として投稿する事にしました。
日本の「平和主義」における根本理念
平和主義者の普段主張している事をトレースすれば、彼らの主張が生み出される根本理念が見えて来る。
非武装中立
無抵抗主義
絶対的護憲
日本悪玉論
大体、上記4つを徹底遵守するような言論を行うと、「一丁前の平和主義者」に擬態可能だ。
今回は「絶対的護憲」について掘り下げてみる。
「絶対的護憲」とは?
文字通り、
「現在の日本国憲法を一言一句、変えさせてはならない」
とする立場の事だ。
「護憲」の中心は「9条の死守」と「自衛隊は違憲の存在」
現在の日本において、「自衛隊の即時廃止」を訴えたり、それに賛同する人はかなりの少数派だろう。
直近、自衛隊の体質的な問題、セクハラ、パワハラに焦点が当たる事件が連続して報じられた所でもあり、組織内部の問題は多くの人が懸念する状況だと思う。
だが、いざ日本が自然災害に見舞われたとなれば、まさに文字通り粉骨砕身で人命救助に当たり、生活インフラが最低限の機能を取り戻すまでのつなぎの役割を果たしてくれる。
大災害の度、自分達の置かれた環境も極限に近い中、汗まみれ、泥まみれになって一日中働く。
食事が行き渡っていない被災者の気持ちに配慮して隠れるように食事を摂り、住民用に清潔な水を消費しない為、飲用に適さない水で身体や顔を洗って済ませるなど、やり過ぎな程に国民への配慮をしながら、文句も言わず働き続ける。
彼らの献身的な活動を目の当たりにして、「自衛隊など無くなれば良い」と思うのは世間一般の感覚からかなり外れたところにあるだろう。
「自衛隊に対し好ましく思ってない界隈」にとっても、それをそのまま表現すれば「自衛隊の災害時活動へ感謝をしている普通の日本人」から袋叩きにされる事が目に見えている。なので、今現在、自衛隊を露骨に批判するのは同じような批判意識を持つ身内向けにアピールする人か、世間一般からどう見られるかの感度が異常に鈍い人か、のどちらかになる。
だが、第二次大戦の記憶が大いに残る戦後初期、自衛隊創設、「”戦力”の再保有」はそのまま対外戦争の手段を持つ事と解され、社会主義的主張を行う左派政党に限らず、国民の中にも相当な不満の声が存在していたのだ。
以下は防衛大学校1期生である平間洋一さんが、自衛隊創設、防衛大学校設立を決めた吉田茂総理大臣と面談した際に語られた言葉だ。
※読みやすくする為、改行を入れ、一部脱字と思われる部分を私が訂正しています。原文は上記URLの「3 総理との会話」の最後の方にあります。
また、平間洋一さんのHPは http://hiramayoihi.com/ から確認できます。
平間さんは2020年にお亡くなりになっており、直接リンクの適否が不明の為、リンク無しとしています。ご了承ください。
「自衛隊」が創設された当時の日本の空気感が、吉田総理の言葉から伝わって来る。
第二次大戦の戦禍の記憶が残る中、「平和憲法」として「日本国憲法」が制定され、日本は国として軍隊を持たない事が決まった。
国民の多くは、この事を歓迎していた。
それが日本独立直後、もう一度、実力組織を作ろうと言う話になったのだ。
憲法9条で定めた「戦力の不保持」と合致しないのは明らかだ。
世間的には、「何故また再軍備するのか」、「もう戦争は沢山だ」との軍隊忌避、戦争忌避の声が多数派だったのだ。
国際情勢としては、1950年にソ連の支援を受けた北朝鮮が韓国へ侵攻した「朝鮮戦争」が日本再軍備への最大要因だった。
進駐軍であるGHQから韓国支援の為の部隊が多く派遣される事となった。
GHQには日本を守る役割もあるが、朝鮮半島への派兵がなされた事で、日本を守る能力は低下する。
それを放置して良い訳が無い。
GHQが日本に警察以上の実力組織を持つよう求めたのは、至極当然の話だった。
そして、まずは「警察予備隊」が創設され、「保安隊」を経て、「自衛隊」へと改組される事となった。
ちなみに、マッカーサーや米国務長官顧問ダレスは、日本国憲法制定時に想定していた国際状況と全く異なる事を理由に、憲法改正を吉田茂に打診するが、此方は拒否している。
(ただ、吉田茂はこの時の判断を後年、後悔していたと言う。戦禍からの復興を優先した為の判断だとされている。)
元はGHQに主導され、生まれた平和憲法としての日本国憲法だ。
当初のGHQの最大の目的は「二度と日本が戦争を起こす手段を持たない」事だった。
その為、戦争に突き進む要因となった国家主義的価値観を社会から徹底的に排除し、その為に社会主義者、共産主義者の社会参画を積極的に進めた。
民主主義陣営は何処であっても、学術界、教育界、法曹界、メディアなどは左派的傾向を持つものだ。だが、日本ほど露骨に自国を徹底的に悪し様に語り、放っておけば自動的に他国侵略を行いかねないとの前提から、自国軍備を徹底非難する国は他に無い。
それは、戦後社会の再構築において、日本と言う国そのものへの忌避感が強い勢力を積極登用した副作用だ。
日本国憲法制定から間もなく、世界は「民主主義国家」と「社会主義国家」との間で対立を深める事となる。
GHQにとって、何時かあるかもしれない未来における「日本軍の復活」を恐れるよりも目の前の敵となった「社会主義国家群」「共産圏」への現実的対処こそが重要となった。
日本を対「共産圏」への防波堤とする必要に迫られたのだ。
こう言った経緯により、GHQは「日本の『普通の国』化」を求めるようになり、日本の共産主義者、社会主義者への対応も次第に冷淡なものへと変化して行く。
これを「逆コース」と呼ぶ。「逆コース」とは読売新聞が日本の「再軍備化」推進に対し、終戦直後から始まった「反戦平和」路線を逆走しているのではないか?との疑念から執筆された特集記事のタイトルが由来となっている。
「日本の軍備を十分なものにしよう」との政治的主張に対し、マスコミが「いつか来た道」「軍靴の音が聞こえる」とのテンプレでいかにも「日本が侵略戦争への道を突き進もうとしている」かのような論調で批判するが、これは戦後直後から始まるマスコミの伝統芸なのだ。
そして、日本の左派政党の多くが、平和憲法の条文通りの戦力不保持の徹底を求め、つまり「自衛隊は違憲の存在」「自衛隊を即刻廃止せよ」との立場を選んだのだ。
「護憲」の精神は、ここから始まっているのだ。
生まれた時から歪んでいた「日本国憲法」
だが、そもそも、日本国憲法の前提は最初から壊れている。
日本国憲法は素直に読めば、自衛権すら認めていない。
「武力による威嚇」とは「相手国の攻撃を無効化する力(これを”拒否的抑止力”と呼ぶ)」や「反撃能力(これを”懲罰的抑止力”と呼ぶ)」によって、相手国に戦争を仕掛ける動機を持たせない「抑止力」と関わって来る。
永世中立国であるスイスは実は重武装、国民皆兵制度の国家であるのだが、スイスの軍事力は「拒否的抑止力」に特化している。
日本国憲法9条は、字面だけを普通に解釈すれば、この「拒否的抑止力」すら「永久にこれを放棄する」と宣言しているのだ。
これにはちゃんと理由がある。
GHQが
「日本に自衛権を与えなくとも、『国連軍』によって守れば良い」
との想定で、条文を考えたからだ。
だが上述の通り、終戦から間もなく、民主主義国家と社会主義国家は対立を深め、「東西冷戦」が始まってしまう。
「国連軍」構想は終戦間もなく果たされない約束と化してしまった。
実は、アメリカは戦中、戦後を通じてソ連の事を一貫して信用していなかった。
ソ連に日ソ不可侵条約を破棄させ、第二次大戦に参戦させる為、米英ソ連は「ヤルタ会談」を開いた。
ここで、アメリカはソ連の取り分について、話を盛っている。
実際、終戦直前、アメリカは蒋介石を熱心に応援して満州地域への中国国民党軍の進出を支援したが、最後まで旧日本軍の抵抗が激しく、結果として北から入ったソ連軍の占領地域となった。しかし、アメリカの本音としては、満州をソ連に渡したくなく、それ故に蒋介石率いる中国国民党軍へ手厚い支援を行っていたのだ。
イギリス・アメリカ共に、最終的な戦争勝利に向けてソ連参戦を非常に強く望んだが、その時点でもポーランドやドイツに対する扱いなどでソ連と対立する事項は数多く存在し、信頼関係構築の難しさは最初から顕在化していた。
だが、兎にも角にも、「対日戦線での勝利無しには新たな国際秩序を生み出す事は出来ない」との見解で米英が一致していた為、アメリカはソ連に渡したくない権益までも、まるでソ連が手に入れられるかのように意図して誤認させ、ソ連に参戦を決意させ、実際に参戦してからはソ連の権益を増やさぬよう行動していたのだ。
それでも、終戦直後は日本との戦闘によって大きな損害を出した記憶も鮮明である事から、対ソ連、対共産主義者の世界戦略を考えるより前に、連合国として「日本の非武装化」はどうしても実現したい枠組みであったのだ。
そうして「国連軍」創設を前提とした自衛権すら持たない条文を入れ込んだ日本国憲法だが、間もなく米ソを基軸とする東西冷戦の開始によって「国連軍」構想は完全に潰え、自動的に日本の自衛権の問題が宙に浮いてしまった。
先述した通り実は、この時点で日本国憲法改正の話が早くもGHQ側から提示されていたのだが、時の総理大臣・吉田茂はこれを拒否した。
更に1950年、日本とのサンフランシスコ平和条約締結に向けて訪日したダレスからも、憲法改正と日本軍再発足を提案されたが、これも吉田茂が拒否している。
吉田茂としては、戦後初期の非常に限られた予算で軍備を整備するよりも、戦争によって荒廃した日本の復興を優先する為だったとされる。
ただ、憲法を押し付けたGHQに大きな責任があるとは言え、吉田茂のこの判断こそが、大多数の日本人から
「日本と言う国をどう守るか?」
「日本国の自衛権をどう捉えるか?」
の問題意識をすっぽり抜け落とす事に繋がってしまった。
逆に、これらの真っ当な問題意識に言及し、現実主義的主張を行う者をあたかも「戦争愛好家」「平和を愛する国民の敵」が如く批判する論調を生み出してしまった。
全ての歪みはここから始まったのだ。
このように、憲法典だけを普通に読めば自衛権すら持てない状況にあって、無理やりに整合性を取る為の憲法解釈が、
「自衛権は自然権(人が生まれながらに持っている権利)」
だ。もう少し説明すると
「憲法典に書いてなかろうが『自衛権は最初から存在していて、それを否定する事など誰にも出来ない』のだ」
とする解釈だ。
だが、国家の正当防衛する権利に当たる「自衛権」を明らかに制限する為に入れ込んだ憲法9条に対し、「自然権だから全ての自衛権を否定している訳じゃない」と解釈し、「『言わなくても当たり前にある』に決まってる」とするのはまともな判断力のある大人の言う事では無い。
「無条件の戦力放棄な訳がない」ならば、最初からそう読めるように条文を書く必要があったのだ。
そして、憲法9条自体に問題がある事を率直に認めるしかないのだ。
「平和憲法」に合わせて、現実の方を歪める平和主義者たち
さらに、このような不自然な解釈に整合性を付与する目的で、
「日本の自衛権は、他の国よりも制限がある」
とのもう一段歪んだ理屈を憲法解釈にねじ込んで来たのだ。
その一つが、
「個別的自衛権までは認めるけれども、集団的自衛権は認められない」
との論調だ。
これは国連憲章51条を真っ向否定する内容であり、国連憲章で求められる世界の平和維持に寄与する機会を自ら捨てる事を意味する。
「集団的自衛権の否定」が国際平和の為になると本気で信じてる人達は、「真の意味で国際平和をどのように維持するのか、国際平和の為に日本には何が出来るか?」について向き合って来なかったのだ。
さらに、
「拒否的抑止力までは認めるけれども、懲罰的抑止力は認められない」
もある。
「拒否的抑止力」とは敵の攻撃を物理的に封じるなど、攻撃を無効化する事で相手の目的達成を困難にし、相手に軍事行動を思い止まらせる事を指す。
「懲罰的抑止力」とは報復能力によって相手を威嚇し、軍事行動を思い止まらせる事を指す。
実際問題、敵基地攻撃能力については両方の意味合いがある為、線引きが難しい。敵国からのミサイル攻撃に対し、分かりやすい拒否的抑止力は迎撃ミサイルシステムだ。だが、これは性能的な限界があり、弾数も限られる。
攻撃する方より、迎撃する方が余程高い技術を要求され、コスト面での負担も圧倒的に大きくなる。
迎撃ミサイルシステムが十分機能せず、被害が甚大となっている中、敵国の日本に向けたミサイル発射基地を叩く事はそれ以上のミサイル攻撃を不可能にすると言う意味では拒否的抑止力でもあり、相手の軍事能力を直接的に低減させる意味では懲罰的抑止力でもある。
この辺りも平時にきちんと話し合い、その結論に従って装備品に求められる能力を決め、その仕様に合致する装備品開発を民間企業にお願いしなければ何時まで経っても日本の装備品に加わる事は無い。
現段階ではこれが何一つ進んでいないのだ。
いま、日本がミサイル攻撃を受けたならば、日本の持つ装備品だけで敵国のミサイル基地を稼働停止に追い込む事は出来ない。
敵のミサイルの弾数が尽きるまで、攻撃を一方的に受ける事になる。
実は、安倍晋三が総理大臣時代、
「現状では、核兵器ですら最初の一発は甘受するより無い」
と国防に関する非常に重い発言をしている。
個人的やり取りの中での発言ではない。
総理大臣として、国会答弁の中で、国防上の非常に重い問題として、これを日本国民に投げ掛ける意味でなされた発言だ。
だが、これを日本のマスコミは完全に黙殺した。
「全く報道しない」事によって、世間的な関心事になる事を未然に防いだのだ。
日本のマスコミは、自分達に都合の悪い発言については、「拒否的抑止力」を発動し、そのような日本社会における問題など存在していないかのように振る舞う。
反吐が出る程、醜く、独善的なメディアの姿がそこにはある。
国民の知る権利を奪い、間接的に日本国民の生殺与奪の権利を握っていて、日本国民がより多く死亡する可能性を認知できないよう誘導する行為が、あたかも「平和を愛し、国民にとって望ましい行為である」かのように誤認しているのだ。
メディアに期待される社会的役割を捨て、プロパガンダに勤しむ自分達の姿に疑問を抱かない連中が、日本の世論を誘導している。
今まさに、日本人は現在進行形で、日本のマスコミから情報戦を仕掛けられている事を知らなければならない。
敵国からの攻撃による日本人の死傷者想定は絶対に行わない。
自国に向けて次々ミサイルが発射されている事を認知出来ていたとしても、そのミサイル基地攻撃は絶対に認めない。
こういう人達が自分達の事を「平和主義者」と自認しているのだ。
ここに違和感を抱けない人は、ファンタジーの世界の住人と言える。
「反戦平和」に関する強烈な先入観を基に巨大な認知バイアスを形成し、
「日本が武器を使う事は、絶対的に認めてはならない」
「撃たれても撃たれても耐える事こそが平和の為の第一歩なのだ」
と強く信じている。
これに対し、現実主義的立場からなされる当たり前の批判は全く届かない。
妥当性ある軍事的リアクションは全て「戦争への道」だと信じてるからだ。
自分の家族がもし、日本の反撃能力が整備されておらず、その結果として敵国のミサイル攻撃によってむざむざと殺されてしまったとする。
私なら適切な抑止力兵器を用意させない為、妨害し続けた平和主義者を一生恨むだろう。
だが、この歪んだ「平和主義者」達は、被害者及びその家族から強烈に恨まれる未来について全く想定していない。
外交によって紛争回避出来る未来しか考えていないからだ。
そして、もし紛争回避出来なかったとすれば、それは国、政府の失策によるものだ。
敵国からの攻撃によって死んだ者は、「国が間違った外交を行った」事による被害者と考える。
自分達はその責めを受ける立場にない、あくまで悪いのは国であり、政府なのだ。
このように思考している。
「憲法解釈の変更」と言う「事実上の改憲」
日本人は「改憲」と言うと、「憲法典の条文改正」の事だけを強く意識する。
だが、実際には「憲法解釈の変更」も「改憲」の一部だ。
この意味で、憲法典からは到底読み取れない自衛権に関する解釈を何度も行っている時点で、日本は「改憲」を既に何度も行っている事になる。
護憲論者が知られたくない「不都合な真実」だ。
(ただ、この界隈は不勉強な人も非常に多い為、本当に知らない護憲論者も山ほどいるだろうと推察する。)
「自衛権」が国家存続に不可欠な権利なのであれば、当然それは憲法で規定されるべきだ。
だが、条文に「自衛権」規定が存在しない為、何処までが自然権として認められるべきで、何処からが認められないのか?は誰にも分からない。
一応、憲法解釈を争う裁判を通じ、出された確定判決によって、その時点の司法的な憲法解釈は現れる事がある。
だが、時代の変化によって憲法解釈もまた変化する可能性を秘めている為、過去の判例が絶対的に今も通用するのかは確定的に語る事が出来ない。
そうして、時代時代に「憲法解釈」の主流、傍流が生まれる事になる。
そういう中で、現実の政治においては時の政権が過去の最高裁判決と内閣法制局による憲法・法律解釈に縛られながら、暫定的な憲法解釈を提示する事になる。
(内閣法制局は法令案の審査や法制に関する調査を行う行政機関。立法に際しては、内閣法制局のお墨付きが無ければ事実上提出出来ない事から、時に総理大臣よりも強力な権限を持つ。)
憲法典で確定的な事がはっきりしない部分を暫定的な政府解釈に頼って「こう読むべきだ」と積み重ねて行く事は、結局のところ、時の政権の意向によって立憲主義から逸脱しやすくなってしまう。
なので本来ならば、「憲法制定の精神を大事にする」との立場から、「改憲」を望む声が上がって然るべきなのだ。
しかし、日本では「憲法制定の精神を大事にする」と「憲法典の条文改正、絶対阻止」は完全に一体化している。
どうしてそうなるかと言うと、日本の護憲派の究極目標が、
「今までの自衛権に関する憲法解釈を全てご破算にする事は、寧ろ望む所」
だからだ。彼らは
「自衛権まで放棄する事こそが真の平和主義」
「自衛隊なんて要らない」
「日本が侵略戦争を起こす手段を完全に無くす事こそが、真の平和につながる」
と信じているのだ。
今現在の平均的な日本人の意識を考えた時、繰り返し行われる世論調査の結果を見ても「どちらかと言うと護憲が好ましい」くらいのスタンスを取る人達が、最も割合的に多いのではないかと思う。
こう言った人達は、別に「自衛権を放棄する事」も「自衛隊を廃止する事」も望んではいないだろう。
仮に日本が何処かから侵略戦争を仕掛けられた場合、それを食い止める為に自衛隊が活動するのは当然の事だと思っているだろう。
その上で、「日本が侵略戦争を起こさない為の安全弁」としての「護憲」「憲法9条改正反対」にそれなりの説得力を感じ、「どちらかと言えば護憲」になっていると思う。
だが、そのような自然な自衛隊への期待、自衛権行使への期待と相反する「護憲が望ましい」との感覚は、そういう方向に国民を誘導して来た左派政党、マスコミによって作られたのだ。
上述の通り、彼らは滅茶苦茶な論理展開を行い、国際標準から逸脱しまくった理屈によって、「平和憲法」の在り方を規定し、「戦力不保持」を徹底すべきとの思いに従って活動し続けて来たのだ。
「絶対的護憲」の立場の連中に影響され、「どちらかと言えば護憲」に流されてしまった事に自覚的になる必要がある。
そうして、改めて「憲法改正の適否」について考え直す必要があるのだ。
「日本国憲法」を「美しい」と評する界隈
また、憲法の前文にある一節からも、日本国憲法の破綻ぶりが表れている。
日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互 の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。
「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して」とあるが、ロシア、中国、北朝鮮を見て、これがどれだけ空疎な言葉であるか感じ取れない人は何処かがおかしい。
平和を愛さない国など未だに幾らでもある。
それを踏まえれば、前文の前提に立って生み出された全ての条文について、その妥当性を疑って当たり前だ。
前提から狂っている為に、自衛権を想定しないおかしな憲法が出来上がったのだ。
私が中学生だった頃、社会科の教師が公民の授業の中で
「日本国憲法は日本語としても美しい」
と語った事があった。
多分、同じような事を言われた経験を持つ人は少なくないだろう。
日教組に入って観念的な平和主義に憑りつかれた教師は、大体同じような事を言い出すからだ。
護憲派は
「改憲させたくない」
との結論が先に有って、その理屈付けを後から後から追加する。
第一義的には
「日本国憲法は”内容的に”変える必要が無いのだ」
とその「内容の十分性」を主張する事になる。
だが、それでも憲法改正は当然なされるべきだとの声をゼロにする事は出来ない。
そこで、憲法改正を行わせない方便として、
「日本国憲法の条文自体に美しさがある」
など抽象的価値観を持ち出すようになるのだ。
こうなると「護憲に憑りつかれた亡霊」も同然だ。
別に詩歌や文学的作品では無いのだから、そこに日本語的美しさなどあろうとなかろうと関係無い。
そりゃあ日本語として読みやすい文章、構成になっている方が誰にとっても有難いものになるだろう。
だが、「結果的に美しさを備えている」と言う話と「美しいので改憲してはならない」には話にならない程の乖離が生じている。
ここに気付けない連中は、小学生から論理的思考を学び直した方が良い。
こういう事を言った事のある教師は、詭弁を弄して子供たちの思想を誘導する醜悪さを理解し、教師としての人生を反省すべきだ。
社会科教師がこの体たらくで、彼らに教わる生徒がまともな感性を持って育つ訳が無い。
自分自身の頭で考える事を放棄した人間が、同じように思考能力を失った子供を生み出そうと教育現場で思想教育を行っている。
日本は北朝鮮や中国を笑える立場に無いのだ。
「日本国憲法の美しさ」を語る連中の多くは、実際には各条文について正しく吟味した経験が無いのではないか?と私は疑っている。
元々、日本国憲法はGHQから英文で草案を提示されている。
その結果としてところどころ日本語として普段使われない言い回しが出て来る。
例えば、9条2項だ。
これを普通の日本語だと感じる人は、言語能力に問題があるだろう。
前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は保持しない。
国の交戦権は認めない。
これで良いはずだろう。何故、「、これを」が入るのか?
英文を読めばこの理由が分かる。
元の英文では共に「受動態」なのだ。
太字部分を直訳すれば、「保持されない」「認められない」となる。
「誰によって保持されないのか?」「誰の行為として認められないのか?」は当然ながら「日本国」になる訳だが、文章構成上、そこが書かれていない。
改めて9条2項を直訳し直すとこうなる。
前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は保持されない。
国の交戦権は認められない。
直訳では動作の主がいない事で、読み手に違和感を生じさせてしまう。
だから、「、これを」を入れ込み、動作の主無しでも成立するよう「能動態」の日本語にしたと言う事だろう。
取り敢えずGHQの望む憲法草案を受け入れる前提で始まり、英語版草稿を安易に受け入れてしまったが為、不自然な日本語が発生したのだ。
個人的感性、意見の一つとして
「日本国憲法は文章として美しい」
と考える事を絶対的に間違っていると言う事は出来ない。
個人の自由は最大限尊重したいし、感性の部分を押し付ける事はやってはならない。
だが、通常の日本語で出くわす事の無い表現に何も感じず、ただただ「美しい」と言い出す人間の事を私は信用ならない。
美的センスの話以前に、文章評価に強烈な思想を持ち込み、バイアスが掛かった自分に気付けない偏った人間だとしか思えない。
思想によってまともな感性を失った哀れな人間が、まだ思想的に未成熟な子供に「社会」を教え、「平和」を説くのだ。
日本社会は、既に巨大な思想実験の実験場となっているかのようだ。
条文が生まれた背景を正しく追う事無しに、条文をただただ改変させないよう必死で活動する事に、本当に意味があるのか?
それで「平和」を実現出来るのか?
ここに説得力ある回答を用意できなければ、「絶対的護憲」にも意味など無いのだ。
<平和道とは死ぬ事と見付けたり(補講4)へ続く>
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