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あなたにとって、どんなことが愛されるということなのか

「母に愛されていたと思いますか。またそれはどうしてですか。」
愛されていたか、愛されていなかったか、どちらを感じていてもいいが、この問いでわかるのは、自分の価値観だという。

例えば、愛されていたと思う、なぜなら信頼してくれていたから。という人は、信頼することが愛だと捉えていることになる。

わたしと言えば、愛されていたと思うが、自分のことは差し置いて子どものことを一番に考えてくれていたように感じるから。というのが出てきた。ということは、わたしにとって愛とは自己犠牲だということになる。

これを知ったときは我ながら驚いた、し、納得もした。あー・・・ 元夫にも、様々な職場においても、いろんなところでそれをやってきたわぁ、と。そりゃしんどくも、うまくいかなくも、なるわなぁ。

無意識で、自分を犠牲にして尽くすことが愛、だと思ってそれをしていたら、どんどん疲弊してくに決まってる。自分を大切にする、なんて知るわけもない。

そういうふうに愛を受けとってきたわたしは、そうすれば愛されると思ってさえもいて、こんなに尽くしているのに、どうして愛してくれないんだろう、と愛に飢えることにもなった。とんでもない話だ。

父も、母も、すごく頑張ってくれていたように思う。お金がなく苦労した話も聞いたし、事業を立ち上げてからもいろんなことがあり、それでも二人とも、どんな時でも、わたしと弟、子どもたちのことを最優先に考えてきてくれたように思う。

これは決して、自己犠牲などではなく、両親の愛だったのだと今なら思える。それはそれは大変だっただろうに。

以前一度、母に話してみたことがある。自分を犠牲にしなくていいんだよ、もっと自分を大切にしてほしいよ、と。そしたら母は、自分がやりたくてやってきたのだし、それが喜びであり、自己犠牲ではない、と。だけど、わたしは信じられなかった。そんなしんどそうなのに?え、全然自分を大切にしているように見えないけど?と。その時はまだ受け取れなかったのだ。

冒頭の話を一緒に聞いていた人が、自己犠牲が愛だと思っていたら、受けとりづらくもなるよね、と教えてくれた。

そりゃそうだ、自分たちのために大変な思いをして、自分を犠牲にしてまでやってきてくれたのだと思うと、受けとるにも、申し訳なさが出る。受けとってもいいのかな、何だか申し訳ないな、と罪悪感さえ生まれる。人の真心を受けとれないのだ。

何をしてきたのか。勝手にそう思い込んで。
子ども心に愛を自己犠牲だと捉えるのって怖くない?とその人に話すと、それはやさしさなんだと教えてくれた。子どもながらに、親を思い、心配し、自分たちのことも大切にしてほしいと願う心。それも愛なんだよと。だから結局愛なんだよと。

そうかぁ。
ちょくちょく、(心が)やさしい、と言われることがあったが、なんのことかさっぱりわかっていなかった。でも少しわかった気がする。

とんでもない遠回りをして、愛を受けとったわたし。
愛の受けとり方も様々なんだなと学んだわたし。

ほぅ。。。
また少し何かが変わる気がする。

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