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わたしはのろわれています

※スピリチュアルな話ではないです

人は生きていないと、誰かに優しさをあげることも貰うこともできないと思う。主体が消えては何もできないので。
確かに死ぬことで贖えることもあるかもしれない、思い知らせることもできるかもしれない。死なれて初めて優しさに気づくこともあるかもしれない。
でも人はすぐ忘れていく。生き続けなければ忘れられる。
そういう意味では、死ぬことで救われることもある。忘れることで断ち切ることもできる。
逆にいえば、生き続けることで呪うこともできる。

救われることは忘れることなのかもしれない。忘れられることは救われることなのかもしれない。
じゃあなんかもう救われたくなんてないかもしれない。

誰かが誰かのかけた呪いを断ち切ってくれることは救われることだろうか、もしそれがあれば、それは愛という名の別の呪いな気がする。繋ぐことは呪うことだと思っている。
呪いって接着剤みたいなもんです。だからみんな誰かに呪われています。

どうせなら、優しさや愛という名の呪いをふるっていきていたいものだけれど、うまくいかないね。

善性というものをもっと知りたいとおもいます。人の“善さ“というものはどこにあるのでしょうか。
私は守られていると思うこともあります。家族にはもちろん、会ったことのないあなたにも。

BUMP OF CHICKENの『ひとりごと』という歌を未だによく聴きます。
歌詞に「きっとさ 人と人との心の外の中だけに在るんだ」
という一節があります。この曲は優しさについて考えすぎて、聴いてる人に「どちらのものでもない 名前のない それだけに出会いたい」という答えまで提示してくれる優しい曲です。

私の考える呪いはこれに近くて全く違うものなのかもしれない。名前のないそれが「呪い」だったらこんなに嫌なことはありません。
ここでいわれる「それ」とは接着剤ではなく、もっと潤滑剤のような、人と人の間で摩擦による傷を防ぐ役割をするもののようにおもいます。

誰かに引きずられ、すり減るのはやめにしたいです。全てを手放すとまではいかないけれど、どうしても、繋いでいたいところはあるけれど、でも手放してもどこかで優しくつながっているのが人間関係の一番いいかたちのように思います。


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