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ナポレオンの戦略・戦術のまとめ

◼︎実行力

ナポレオンが敵軍の動きを予め全て計算の上で戦争したというのは作り話。戦場での現実の展開に即興で対応できたから強かった。

ナポレオンは、大変な読書家で戦略書を読みあさったが、行動の人であり戦略思想家ではなかった。無名将校時代に勉強したサックス「わが瞑想」、ブールセ「山地戦の原則」、ギベール「戦術概論」、デュ・テイユ「野戦における新砲兵の運用」の理論を実行したにすぎない。軍事的天才たる所以は不確実性の支配する実戦で常に勝利した実行力にある。 ナポレオンは「戦争術とは単純である。すべては実行の問題だ」と信じていた。

◼︎戦力の集中

戦力の集中とは、戦力を一箇所に集めることではなくて、必要に応じて戦力を柔軟に融通し合えること。「機動力を利用し兵力を集中する要諦は、その融通性と臨機応変性にあって、決して兵力の凝集化にあるのではない」(リデルハート)。将軍ボナパルトは「機動力発揮と奇襲」という彼の帝国を創設するに足る理論を適用したのに反し、皇帝ナポレオンは戦力の単純な「量の集中」という彼の帝国を破滅に導く手腕を発揮してしまった。それにもかかわらず、クラウゼヴィッツ等がナポレオンの戦略を誤解し「量の集中」を強調したため、第一次世界大戦の全面戦争の失敗につながった。

◼︎計算された大胆さ

ナポレオンは常に大胆な戦略を取ったが、自軍根拠地との背後連絡線を敵軍に切断されてはならないという原則は順守して機動した。「大胆と無謀は異なる」。

仮に戦闘で敗北しても自軍拠点との補給連絡線を切断されない場所から敵軍を攻撃する。これは概して、自軍の補給連絡線正面に予備軍を配置しつつ、敵軍の補給連絡線に向かって、即ち敵軍の翼面ないし背後を目指して機動することを意味している。 一つの戦闘で敗北しても戦略的には戦役を立て直すことができるところがポイント。オプションを用意しているという点で戦略的であると言える。1796年のロディの戦い、1800年のマレンゴの戦い、1805年のウルムの戦いでナポレオンはこうした戦略的機動を行っている。

◼︎各個撃破

各個撃破というのは、多方面から自軍を包囲しようとする敵に対する守備的な戦い方。だから1796-97年の第1次イタリア遠征や1814年のフランス戦役では綺麗に決まった。

自軍の主力を以って敵軍の個別の戦力と交戦するように機動する。ナポレオン曰く「全軍を敵の数箇師団に差し向けることのできるような具合に機動するがよい。こうすれば敵軍の半数の軍隊をもってしても君は常に戦場では敵よりも強いであろう。」

相互連絡線の確保できていない分進合撃は各個撃破される。第1次イタリア遠征でナポレオンがオーストリア軍を撃破したのはこの原理に基づく。

各個撃破の内戦作戦も分進合撃の外線作戦も会戦での数の優位を確保するためにいかに機動するかの会戦が始まる前の戦略の話。

◼︎厳しさ

ナポレオン曰く、

「勝利によってもたらされる利益はまさに倍増され損害を十分に償ってくれるから状況により必要とされる犠牲をおそれてはならない」

ナポレオンは、戦場での数の優位を確保するため、分散配置していた師団を、戦場となる地点に向かって徹夜で急行させ、そのまま戦闘に投入したりした。このような用兵であったため兵士の消耗は激しく、ナポレオンが指揮する軍の1ヶ月の損失は、通常の軍の3ヶ月分に相当したという。

◼︎地形の利用

ロナト・カスティリーオーネの戦いで、分進するオーストリア軍がガルダ湖が障壁になって相互連絡が取れないことを利用したり、アルコレの戦いで沼地を戦場に選定してオーストリア軍の兵数優位を相殺したりと、ナポレオンは戦場の地形の特性を自分に有利なように利用するのに非常に長けていた。

◼︎編制

中隊140名×6=840名=大隊
→大隊(840名)×4=3360名=連隊
→連隊(3360名)×2=6720名=旅団
→旅団(6720名)×2=13440名+砲兵・騎兵=師団(約20000名)
→師団(約20000名)×2~4=軍団

師団編制は1740-8年のオーストリア継承戦争で試されている。これらが広まらなかったのは、大軍を分散し、移動展開を相互に調整し、再び迅速に集結させるのに必要な道路と地図が、思うように手に入らなかったため。革命よりも政府と測量士の努力が構想を現実に変えた。

◼︎ロジスティクス

現地調達は、クレヴェルトが指摘するように17-18世紀において普通に実施されていた。むしろクレヴェルトは、ナポレオンの方こそが後方からの持続的な補給を可能にしようとした最初の軍人であったと指摘している。

◼︎要塞

機動力は革命により軍の規模が劇的に拡大し、要塞が無力化されたため獲得された。そのため後年、地理的要因から多くの攻城戦を余儀なくされたスペインにおいては苦労した。

1814年のフランス戦役で負け越したナポレオン軍は連合軍によるフランス国内進入をあっさり認めてしまう。その一つの原因はナポレオンが野戦軍による機動戦を重視したあまり要塞による防御を軽視したため。これには青年将校時代に読んだギベールの影響が大きい。クラウゼヴィッツは戦争論の中でフランスの要塞構築の仕方は非常にまずいと論評している。

◼︎1796年-1797年イタリア戦役

ナポレオン曰く、

「敵将は皆経験に富み、決して凡庸ではないが、彼らは一時に多くのことを考えすぎた。私は常に敵の主力のことだけを考えた」

「兵法に複雑な策略などはいらない。最も単純なものが最良なのだ。ヨーロッパには優れた将軍達がいるが、彼等が間違いを犯してしまうのは、難しい戦略を立て、賢く振る舞おうとするからだ。私は“敵主力の撃滅”だけを考えた。」

「戦争術とは単純である。すべては実行の問題だ」

「戦術の要訣は、どの場所に、いかなる兵力を、いつ、投入するか、を判断するにある」

「わずかな例外は別として、数の優勢な方の部隊にこそ勝利は保証されている。それゆえ戦術は、闘おうと思う地点に赴いた時、どうすれば敵軍より数においてまさっていることができるか、ということを考えるに在る。君の軍隊が敵の軍隊よりも数において少ないならば、敵にその兵力を集める暇を与えず、移動中の敵を襲撃するがよい。そしていろいろな軍団を巧みに孤立させて、それらの孤立させられた軍団の方へと迅速に赴き、いかなる遭遇戦においても君の全軍を敵の数箇師団に差し向けることのできるような具合に機動するがよい。こうすれば敵軍の半数の軍隊をもってしても君は常に戦場では敵よりも強いであろう」

◼︎1800年マレンゴの戦い

アルプス越えの後のマレンゴの戦いでは致命的な判断ミスでナポレオンは敗北寸前。それを救ったのはドゥゼ師団が援軍として到着した事とケレルマンの騎兵隊による敵左翼への突撃であった。しかし後年ナポレオンは自分の判断ミスを敵を誘い出すための計画の一部だったと歴史を改竄した。

◼︎1805年ウルム・アウステルリッツの戦い

北方戦線はプロイセンが参戦しないことを見越して一旦放置し、イタリア戦線はマッセナによる牽制とアルプス山脈の障壁により連合軍が北上して合流するまでは時間があるだろうということで放置し、先ず目の前のオーストリア軍に集中し、後方のロシア軍と合流する前に叩く、次に後方のロシア軍に集中し叩く。

実際、ウルムでオーストリア軍に完勝し、その後補給線が延び切ってピンチになるが、アウステルリッツでロシア軍とオーストリア軍の残軍の連合軍に完勝する。

ただし、機動力の勝利の典型と言われるウルム会戦、実はナポレオンの判断ミスで進撃し過ぎて、気付いたら敵を追い抜いてしまっていて、あわてて引き返したら、偶然、敵軍を完全包囲していて勝利したに過ぎない。

ウルムでのナポレオンによる包囲機動が成功し、アウステルリッツでの連合軍による包囲機動が失敗し逆にナポレオンに中央突破された理由。前者は戦略レベルでの機動であり自軍の翼面を墺軍に晒すことはなかった。後者は戦闘中の戦術レベルでの機動でありナポレオンに自軍の翼面を晒してしまった。

◼︎1806年アウエルシュタットの戦い

フランス第3軍団のダヴーが「2倍」のプロイセン軍に勝った方法は"揺さぶり"。

プロイセン軍の右翼が弱いとみて、まず右翼を集中的に攻める。プロイセン軍の左翼が右翼の救援に向かうと、今度は左翼を集中的に攻める。プロイセン軍はこの揺さぶりに疲弊し動きが散りじりになり遂には撃破された。

プロイセン軍は指揮系統が統一されておらず、こうした揺さぶりに弱いと見抜いたダヴーの判断が当たった。ダヴーは士官学校におけるナポレオンの1年後輩で、軍事的才能だけだったらナポレオンと同等といわれている。

サッカーで大きなサイドチェンジを繰り返したり、テニスでコートの左右に散らせて打ったりして、相手を疲弊させるのと、やってることは同じ。

◼︎1807年アイラウの戦い

何百キロと行進させたイエナの戦いの勝利後、そのまま寒い寒いドイツ北方に大した補給もせずに軍を駐留させて、さらに続け様に厳冬下の2月にロシア軍と兵士を戦わせた。案の定この状況下では「皇帝陛下万歳」って叫ぶ兵士の声は何かシラケていて、中には面と向かってナポレオンを侮蔑する近衛兵もいた。

露軍側面を衝く作戦が伝令が捕虜になり露軍にバレる。小競り合いから予定外に会戦に突入。中央オージェロー師団が吹雪で道に迷い露軍正面に側面を晒し砲撃を受け崩壊、ミュラ騎兵師団の突撃で何とか立直し。ネイ師団が仏軍左翼に到着して何とか引き分けに。実質的に初黒星。

◼︎1807年フリートラントの戦い

ナポレオンが自軍の数的優位を有効活用する戦い方をやっと会得したのが初戦のツ-ロンの戦いから14年目の1807年のフリートラントの戦いであった。ずっと数的劣勢を跳ね返す挑戦者の戦い方をしてきたナポレオンにはいざ圧倒的に数的優位に立つ自軍をどう活用すべきかよく分からなかった。挑戦者の戦い方と王者になってからの戦い方は違う。

◼︎1809年ワグラムの戦い

ダニューブ河をロバウ島北側から渡河すると偽網し東側から深夜に渡河。右翼のダブー軍団は墺軍左翼に攻勢をかけ、左翼のマッセナ軍団は背後に機動しようとする墺軍右翼を阻止。手薄になった墺軍中央に百門の砲列で砲撃、仕上げにマクドナルド軍団の歩兵が墺軍中央を突破し撃破。

◼︎1812年ロシア遠征

進軍してくるナポレオン軍の食糧現地調達を困難ならしめるため自国の農村を焼き払う焦土作戦を計画的にロシア軍は行ったと言われているが、事実は異なる。兵士の圧倒的多数が農奴出身者のロシア軍ではそのような作戦は採用できず、散発的にコサック兵による農村の略奪があったに過ぎない。ナポレオン軍が60万で出発しながらモスクワ到着時には9万5千に激減したのは、フランス軍といいながら2/3は外国人部隊で脱走兵が多かったこと、途中の会戦で多数の死者が出たこと、ナポレオンの考えた補給システムがダメだったことによる。 要するに、ロシア軍に計画的な焦土作戦などなく、勝手にナポレオン軍が自滅していったというのが真相。

◼︎1815年ワーテルローの戦い

12時

前夜の雨のため昼過ぎに攻撃開始。イギリス軍の注意を中央から逸らすため、左翼ジェロームがウーグモン農場のイギリス軍右翼を攻撃。すかさず中央デルロン歩兵師団がイギリス軍中央を攻撃。しかし拠点地ラ・エー・サントの奪取を怠りデルロン師団後退。

16時

フランス軍右翼に、グルーシー師団がイギリス軍との合流を阻止していたはずのプロイセン軍出現。フランス軍は正面イギリス軍より、右翼プロイセン軍より包囲される危機に陥る。さらにナポレオンの命令無しにネイ騎兵軍団がイギリス軍中央に歩兵・砲兵の援護のないまま無謀な大突撃を敢行。イギリス軍方陣により撃退される。

20時

ナポレオンは最終手段、近衛軍団を投入、イギリス軍中央を攻撃。イギリス軍中央の頑強な抵抗およびイギリス軍右翼背後のベルギー軍の投入により近衛軍団敗退。15年間無敵の近衛軍団敗退の報によりフランス軍士気崩壊。一斉にイギリス軍総反撃開始。同時進行でプロイセン軍、フランス軍右翼側面を攻撃。フランス軍敗北決定。

勝利したとしても、連合軍は前年のフランス戦役のように次々と戦いを挑んできたであろうから、結局はフランス軍は疲弊して敗北しただろう。

◼︎作戦には、相手が「まさか!」と思う「驚き」の要素が必要。
ナポレオン戦役で「まさか!」の分析

◎圧勝、◯勝ち 、△辛勝または引き分け、×負け

1796年1797年 第一次イタリア遠征
◯モンテノッテ・デゴ:まさか!中央に突進してくるとは(内線作戦)
◯ミレシモ・モンドヴィ:まさか!デゴからこの速さで引き返してくるとは
◯ロディ:まさか!ピアチェンツァでポー河を渡るとは
◯ロナト・カスティリオーネ:まさか!マントヴァの包囲を解くとは
◯バッサノ:まさか!追撃してくるとは
◯アルコレ:まさか!アディジェ河を渡って背後を取ろうとするとは
◎リヴォリ:まさか!主力をリヴォリに集結させているとは
1800年 第二次イタリア遠征
△マレンゴ:まさか!アルプス山脈を越えて来るとは
1805年 三帝会戦
◯ウルム:まさか!ドーバー海峡からこの速さで引き返してくるとは
◎アウステルリッツ:まさか!プラッツェン高地を放棄するとは
1806年:対プロイセン戦役
◎イエナ:まさか!フランケンの森から背後に回り込むとは
◯アウエルシュタット:ダヴー強ええ!
1807年:対ロシア戦役
△アイラウ:正面からの力押し
◯フリードランド:正面からの力押し
1809年:対オーストリア戦役
◯エックミュール:まさか!側翼をすり抜けて背後から襲って来るとは
×アスペルン•エスリング:正面からの力押し
△ワグラム:正面からの力押し
1812年:ロシア遠征
△スモレンスク:正面からの力押し
◯ボロジノ:正面からの力押し
*遠征自体は大失敗
1813年:ドイツ戦役
×ライプチヒ:ナポレオンの完敗
1814年:フランス国内防衛戦
△シャンポーベル、モンミラーユ、ヴォーシャン:いつもの内線作戦
1815年:最終決戦
×ワーテルロー:いつもの内線作戦

「まさか!」の要素がなくなり、力押しが多くなったり、内線作戦を読まれた後半から勝てなくなってる。原因は、①ナポレオンの軍自体が巨大化して軽快な機動力ある戦いができなくなり、②敵もナポレオンの戦い方を研究するようになり驚かなくなっていたこと。

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