見出し画像

【中学受験ネタ】学校に行く意味

 塾の国語のテスト問題で、「あなたは『学校に行くこと』の意味をどう考えますか?」という記述式の問題が出ていたそう。
 息子が書いた解答は以下。

 僕は全く意味がないと思っている。
 なぜなら勉強は塾のほうが楽しいし、人間関係も塾のほうが気の合う人間が沢山いる。
 一方学校は授業が簡単すぎてつまらないし、気の合う友達も少ない。
 だから学校に行くことは意味がない。

 あまりに断言めいた書き方に驚いたのだが、息子は「ボクの意見を書いてやったよ」と満足そうだった。
 はたして、塾では○をもらっていた。論理が破綻していなければ、どのような過激な答えでも、○になるということか。ある意味潔い。

 学校の意味については、一年生の時からよく息子に聞かれていた。
「そもそも、学校って、意味あるの? 全然新しいこと教えてくれないし、先生の話も面白くないし」
 と。そのたびに答えに窮した記憶がある。
 まあ、息子の場合、塾のほうが学校より居心地がよい、というのが、このような解答をした大きな理由なんだろう。
 塾では成績順に席が決まるので、どんくさい息子でも、成績さえよければ友人のリスペクトを受ける。一方、学校では着替えるのが速いとか、給食を食べられるだとか、足が速いだとか、サッカーがうまいだとか、さまざまな要因が加わるので、算数以外ほとんど駄目と思われている息子は、劣等生扱いを受けているらしい。
 塾でやっている内容は高度な分、深く理解していなければ、なかなか点数は取れない。大人ですら解けないような難問が出ることがある。だから取れた点数はだいたい本人の実力になる。
 だが学校では基礎的な問題しか出ないので、たいていの児童はできる。ところが息子はカラープリントのテストでも、必ずどこかしら間違って満点を逃す。
 以前、体積の問題で、横×高さ×縦の式を書いたらバツになっていた。聞くところによると、乗算する順番が大切だそう。なぜ息子がそう書いたかと言うと、横4cm、縦9cm、高さ5cmだったからだと言う。
 つまり、4×9×5を計算するより、4×5(=20)×9のほうが計算が簡単になるから工夫した、という理由だったらしい。
 そもそも高校数学をやっている息子にとって、乗算する順番など、なんの意味があるのだろうかとは思うが、それが小学校の教師の指導方針なんだろう。
 最近では、息子はカラープリントのテストはどうでもいいと思っているふしがある。

 息子が学校を決定的に嫌いになったのは、五年になって初めての、学年での学力テストだ。
 簡単な問題しか出ないとはいえ、学年での順位が出るというテストなので、塾の勉強を犠牲にしてまで、学校のテスト勉強を優先させた。
「学校では劣等生と思われている君にとって、下克上のチャンスだ。1位を目指せ!」
 と檄を飛ばした。
 結果は学年2位。問題が易しく、ちょっとしたミスが致命的になるため、1点差で2位だった。息子は不服そうだったが、「劣等生扱いされている君にしては、上出来ではないか」と言って慰めた。
「今度こそ、通知表が良くなるかもね」
 とも。
 息子も1学期の通知表を楽しみにしていたのだが、もらった通知表を見て、唖然とした。四年生の通知表よりも悪い結果だったのだ。おまけに四教科以外も悲惨な評価になっていた。
 いったい、絶対評価とはなんなのか。「やる気」とはなんなのか。単なる主観まみれの、なんら公平さを担保できない評価ではないのか。私自身、先生に電話して、とことん問い詰めたい気持ちになったが、息子は相当ショックだったらしい。
 2回目の学力テストの前に「少しは学校のテスト勉強したら?」と妻が言ったら、
「ボクはもう学校のテスト勉強はいっさいしないよ。だって勉強して頑張ったって、あんな成績になるんだから」
 以来、息子は学校での評価をまったく気にしなくなった。
 ただ、学校の友達からは少し見直されたそうで、友達とは楽しくやっているようだ。単なる「ダメな子」から、「勉強のできる奴」という評価になったのは、だいぶやりやすくはなっただろう。
 今では「全くテスト勉強せずに1位になる」と息巻いている。

 だがしかし一つだけ、大きな問題がある。
 息子の熱望校の一つに、筑波大学附属駒場校がある。
 以前とある本で「筑波大学附属駒場校での数学の授業は、三平方の定理を自分で証明すること」というくだりを読んで、「すごい! ここに行けば、こんな楽しいことができるのかぁ」と感激したのが、志望のきっかけだ。
 筑波大学附属駒場校は調査書があり、四教科以外の通知表の点数も、入学試験の点数になる。息子の場合、調査書の点数は、ありえないほどに壊滅的である。
 そもそも、調査書(内申書)という得体のしれないものによって、先生に生殺与奪の権を握られるのが嫌で中学受験を目指したのに、なんの因果で調査書を気にしなければいけなくなったのか。
 妻に至っては「学校はご縁だから、調査書が悪いなら、悪いでいいわよ」と言う始末。私も「ぶっちぎりのいい点数取ってやれ」とはっぱをかけたのだが、筑駒でぶっちぎりなど、まずありえないだろう。
 唯一の望みは、五年生の宿題で出した算数の課題(mathコンテスト)が、いいところまで行っているということだ。三年生の時にも惜しいところまで行った。受賞したら、プラスポイントになるという噂なので、少しは失点をカバーできるとよいのだが、とは思う。数学検定も2級ぐらいになると、少しは評価対象になるかもしれない。
 まあ、最終的には、妻の言う通り「ご縁」なんだろうが。

 息子は音楽も大好きだし、絵も大好きだった。
 子供の頃よく絵を描いていたが、独特な画風で面白い絵を描くなあと思っていた。美術部出身の妻も「味のある絵だよね」と褒めていた。ところが学校に行くようになって、絵をほとんど描かなくなった。通知表の成績を見ても、おそらく息子の描く絵は全く評価されていないのだろう。
 音楽もしかり。音楽は大好きで、我々の聴くクラシックなど、「いい曲だね」としみじみ言っていた。ベートーヴェンの「皇帝」が好きで、勝手にCDをかけるようになったくらいだが、学校の音楽は「つまらない」という。
 自分の小学校の時の記憶に照らし合わせても、例えば図画で、「こういう構図で絵を描いたらいいよ」とか、体育で「もっとこういうフォームにしたら早くなれるよ」とか、まともなアドバイスをもらった記憶がない。
 大したアドバイスもなく、好き勝手に絵を描かせる。好き勝手に歌わせる。好き勝手に走らせてタイムを取る。それで絶対評価なるものを下すのならば、好きなものを嫌いにさせるだけではないか。
 せめて学校では、好きなものを嫌いにさせないで欲しいと思うのは、贅沢な願望なのだろうか。

 親の私から見ても、息子のIQはかなり高いと思う。ただ、精神的には非常に幼いところがある。つまり、人間としてバランスが悪いのだ。親の私でも「二次方程式の解の証明ができるのに、なんでこんな幼稚園児並みのことができないんだ」と思うことがよくある。親ですらそうなんだから、他人だとなおさらであろう。下手をすると、「小馬鹿にされた」と感じる大人もいるかも知れない。
 三年、四年の時の担任の先生は、日が経つにつれ、そのことを理解してくれた。「いやあ、こんな子初めてですけど、最近はツボにはまってきましたよ」と言ってくれた先生もいた。その先生は、息子にとって、よき理解者だったのだろう。現にその先生のことは「大好き」と今でも言っている。
 そんな変わった息子だから、新しい先生になり、コロナ渦であまり学校に行けなかった分、かなりの部分を誤解されている節があるだろう。
 塾の先生も言っていた。
「息子君が大人になるのを待ちましょう」
 さすが塾の先生、いままでにも変わった子をたくさん見てきたはずだ。息子との付き合いも長いので、今の担任よりは息子のことを、はるかによく理解していると思う。
 この息子のバランスの悪さが六年生になるまでに、少しはよくなってくれるといいのだが……。

 今朝も、Yシャツをかける位置をたった15cmずらしただけで
「Yシャツがないんだけど」
 とあからさまに非難めいた言い方をして、「あなたの目は節穴なの?」と妻をイラっとさせ、
 学校に行く直前になって、
「あっ、忘れてた。今日はエプロンと三角巾がいるんだった。あるよね?」
 と平気で言い放ち、「あるわけないでしょ」と妻を激怒させていた。
 妻の怒りは覚めやらず、息子が学校に行った後も、
「私、あの子と性格が合わない」
 と言わしめていた。
 やれやれ。

この記事が参加している募集

子どもに教えられたこと

小説が面白いと思ったら、スキしてもらえれば嬉しいです。 講談社から「虫とりのうた」、「赤い蟷螂」、「幼虫旅館」が出版されているので、もしよろしければ! (怖い話です)