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カーネマン、シボニー、サンスティーン『NOISE』(村井章子訳、早川書房、2021年12月予定)

という翻訳書が出ます(版元ドットコムの情報)。原著が出たのは今年の5月なので、翻訳が出るのもむちゃくちゃ早いですね。この翻訳、上下巻で合計620ページぐらいあるんですが、原著も450ページの大著なので、それをこんなスピードで訳すのはすごい。私には無理です。

 本書は、専門家たちの意思決定で生じるばらつきのことを「ノイズ」と呼んで、豊富な具体例とともに分析しています。法律家、科学者、医者、エンジニア、その他いろいろのプロフェッショナルが、同じ問題について判断するにもかかわらず結果がバラバラになることがある。それはだいたい悪いことなので(同じような犯罪で刑罰が極端に変わるという状況は、おそらく悪いことでしょう)、それが起こる原因を分析し、うまく減らしていこうというふうな。そのための「ノイズ監査」の手法もいろいろ語られています。

よいばらつきと悪いばらつきのコントロールが大事

 さて実際、専門家の判断のばらつきは悪いものであることが多いし、しかも気付かれにくいので、ちゃんと監査して減らしていこうというのは大事です。ただ本書の面白いところは、ばらつきにもよいばらつきと悪いばらつきがあるという主張です。「よい多様性」と「悪い多様性」と言い換えてもいい。

 専門家の判断があまりに一様になっている場合、その集団や組織に系統的なバイアスが生じているかもしれない。実際、専門家というのはだいたい同じような教育を受けているので、たくさん集めれば多様な意見が出てくるというわけでは必ずしもなく、逆にバイアス強化につながることもある。そうなると困るので、判断をうまく「散らす」ためのノイズコントロールの技法も大切ですよ、ということです。ものすごく身近な話にしてしまえば、深夜に文章を書くと危ないので、翌日、目が覚めたあとの別の自分にもう一度チェックしてもらおう、みたいなことですね。

何が「正解」かと、ノイズコントロールは別の話

 ここで重要なポイントは、そういうノイズコントロールは、「正解」を知らなくてもある程度はできるということです。何か新しい問題、たとえば新型コロナウイルス対策で、どうすれば最善かという正解は専門家のあいだでも一致するわけではない。まして、それを外から判断する行政とか一般の人には評価が難しい。しかし、たとえ正解がわからないとしても、ばらつきの程度とか、あと判断が積極的か消極的かといったことで、とりあえず結果だけ見て、ばらつきについて「あやしさ」の「あたりをつける」ことはある程度可能だということです。

ダメなものについての判断はだいたい一致する

 たとえば、これだけはやってはダメ、という消極的な判断については専門家の意見はおおむね一致するので、そこで判断が一様になっていたとしてもそんなに困ったことではなさそう。しかし、こういうことをすべきだ、という積極的な提言でみんな同じことを言っているとすると、何かあやしげなことが起こっているのではないか?と疑ってみる十分な理由になるということです。特に、これまで例がないような新しい問題であればあるほど、積極的な方向の一様さにはあやしさが増します。

ノイズは最小化ではなく最適化すべき

 また、悪いばらつき(ノイズ)であっても、まるっきりゼロにするのは無理だし、それを目指すべきでもない、というのも大事です。ゼロにしたければ現場の判断の裁量をなくせばいいんですが、そんなことをすれば当然、現場の専門家の存在意義にかかわってきます。

 というか、現場の裁量をなくすのであれば、その上の人たちがこういうときはこうします、というルールを作らないといけませんが、そのルールの正しさはどう判断すればいいのか?という当然の問題が出てくる。というか他にもいろいろな波及する問題がわんさか出てきます。

 なので、判断や意思決定のどのレベルについてどれぐらいのばらつきが望ましいのか?という、最小化ではなく最適化を目指したノイズコントロールが考えられることになるわけです。

多少の懸念

 といった感じで、分厚いわりには具体例がもりだくさんで面白い本だと思います。日常生活でのいろいろな判断から、ビジネスや公共政策でのノイズコントロールまで、使えるアイデアがたくさん詰まっています。ただ少しだけ文句をつけると、こういう進展著しい分野のわりには参照文献がちょっと古め(2000年代前半が中心)なので、話の正確さについては最新の論文などで補ったほうがよさそうです。

 また、2010年代に心理学を中心に深刻に受け止められることになった「再現性の危機」についても、意識がちょっと希薄ではないかというあやうさも否めません。このあたりは、最近話題になった「行動経済学の死」の話などと合わせて考えていくとよいでしょう――私はこういうことは学問の健全な発展プロセスだと思うので、これだけで何か致命的なことにはならないと思うのですが。

文献

 私が訳した、エイドリアン・ヴァーミュール『リスクの立憲主義』(勁草書房、2019年)と、キャス・サンスティーン『入門・行動科学と公共政策』(勁草書房、2021年)の2冊は、本書で述べられている専門家の判断におけるノイズコントロール、という主題と密接にかかわっています。特にこの note 記事に書いたことは、ヴァーミュール著の第6章「専門知のリスク」にだいぶ引きつけた内容になっています。ぜひ、比較しながら読んでいただければ幸いに思います。サンスティーン著も約200ページとコンパクトなものなので、いきなり上下巻の分厚い本を読むのはたいへんだなあ、という方への入門書的な位置付けとして最高ではないかと思います。

ということで宣伝して終わり。



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