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内藤廣の建築とオルテガの「生ー理性」:後半 (ドン・キホーテをめぐる思索を読んでの考察)

オルテガの「ドン・キホーテをめぐる思索」を読んだ上で、「生ー理性」の考え方と内藤廣の建築の共通点について2回に分けて考察。後半の④~⑥。

①オルテガの「ドン・キホーテをめぐる思索」を読んだ理由               ②ゲルマン人文化圏と地中海文化圏の考え方            ③「理性」の捉え直し
④ 内藤廣の建築の部位の集合と「生-理性」
⑤国民国家を信じているオルテガの考え方はどの様に現代の                建築の中で意味を持つ可能性があるか。
⑥補足

④内藤廣の建築の部位の集合と「生-理性」
・この「生―理性」の部分を集合させることで、ある一定の普遍に向かうという作り方は、まさに内藤廣の建築から受ける、具体的材料の積み重ねにより建築ができあがりそれがある集団における普遍に近いもの(新しい凡庸、素形)であるという点と共通する。
・また、文中にある「他と異なることが重要ではなく、他と異なるものとなることが重要である」という点も、異なることを目指すのではなく、全く同じではない個々の置かれた環境によって結果的に異なる状態になるということを指すと思われ、異なることに価値を見出す差異化のゲームに陥らない内藤廣の建築のあり方と通じるところがある。
・以上から、内藤廣の部位ごとの材料に着目しその集合をつくることで素形を作っていく姿勢、敷地の置かれた環境から建築を作っていく姿勢は建築における「生-理性」のあり方と言えるのではないか。

国民国家を信じているオルテガの考え方はどの様に現代の建築の中で意味を持つ可能性があるか。
・1914年という時代背景からオルテガはスペイン人、国民性、地中海文化等国民国家や民族に紐づく考え方がまだ多く見受けられる。また対象としている地域も、ヨーロッパがほとんどで、話に出てきて精々中東に留まっている。
・この点は現代において、国民国家という物語は1910年代と比較した場合その効力は薄れており、同時に国境と言う線分と無関係に個と個が繋がることができる現代にそぐわない点も多々ある。
・しかし、④で示した「他と異なることが重要ではなく、他と異なるものになるこが重要である」という文言や「部分の集合により全体を形成することがダイナミズムを生む」という考え、また著書のあとがきにある「デカルト主義で思索する場所は、寝室だろうが、書斎だろうが無関係だった」ことに対して「オルテガにとって「環境」は不可欠な要素だった」という考え方は国民国家ではなく、より小規模な集団での物語の可能性を示している。この部分は現代でも有効な考え方だと思われる。
・またそのような要素が意識的にか、スペインの経験が骨肉化されたことによっての無意識にか内藤廣の建築の中に表れ出ている。

⑥補足
・以上の点から、再度スペイン建築をみること、またその延長で中南米の建築をみることは意味がある。ガウディもこの点から見ると少し違ってみえるかもしれない。
・今まで読んだことがある哲学や美学の本が、ウィーン学派が多く、訳の問題もあって冗長な所は多少あるが基本的に理路整然としていて読んで内容を図式的に追うことができた。
・一方で、今回の本はまさに部分どうしは理解できるが全体として理路整然としているかどうかが今一つ見えないと感じた。こう感じるのは多分、理路整然としていることが正しいという考え方に染まっていることの証明になっていると思われる。(と言うのもオルテガの狙いだとしたら文章書く人ってすごいなと思います)

5/6:建築の難問 内藤廣|tkm1982 (note.com)
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11/9:2.東京ちひろ美術館 内藤廣|tkm1982 (note.com)
11/12:3.内藤廣の建築の解釈 (牧野富太郎記念館、東京ちひろ美術館、フォレストイン益子)|tkm1982 (note.com)  
11/21:内藤廣の建築とオルテガの「生‐理性」:前半
https://note.com/tkm1982/n/nf6b33eeb20ed           


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