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社会と個人の逆説的な関係

最近、ダイバーシティとか、
インクルージョンということが叫ばれています。
ダイバーシティというのは多様性のことで、
インクルージョンというのは、全員参加型とでもいいましょうかね。
インクルードのことなのですべての人を包み込む社会ですかね。

なんとなく、意味は伝わると思います。

さて、多様性ですが、世の中にはいろんな人がいるわけで、
その誰もが存在を認められているというのが、多様性です。
そういう社会を実現しようとすると、
今まで「マイノリティ」と呼ばれていた人たちが、
もっと活躍できる社会にしなければいけない、
という力学が働くわけですね。

「マイノリティ」は、普通に考えると少数派という意味ですから、
性的マイノリティとしてLGBTQや、民族的なマイノリティ、
障がいのある方などが、
ここに含まれることは簡単に理解できると思います。

しかし、この「マイノリティ」を、
「メジャーストリームではなかった人」と解釈すれば、
単純に数の問題ではなくなるので、
「女性」ということも出てくるわけですね。

私はこの考え方には、基本的に賛成です。
しかし、それは実はちょっと注釈付きです。

敢えて正しい言い方にするなら「今は賛成」ですかね。



どういうことかというと、「多様性」という言葉の本当の意味は、
「誰でもいい」という意味だと思っているのです。

「社会で活躍するのは誰でもいいんだよ」とか、
「リーダーになるのは誰でもいいんだよ」とか、
そういう意味です。

「今までメジャーストリームでなかった人」という言い方をするなら、
男性の中にだって「いじめられっこ」とか「へたれ」とか、
そのように「メジャーではないやつ」という烙印を押されて
居場所を失っている人はたくさんいるでしょう。

脳科学者の茂木健一郎先生もおっしゃっていましたが、
40代のおっさんを20人集めたら、それはそれで全員ちがっているので、
そこにだって多様性はあるんですよね。

本当の多様性はそこだと思うのです。
人を属性で判断しない、ということですね。

「女」とか「障がい者」とか「ゲイ」とか、
「韓国人」とか、あるいは「男」とか、
そういう属性で判断することをやめるという話です。

そういう社会の中でも、
やっぱり「いい人」と「悪い人」は存在するでしょう。
でも、その良し悪しの判断を属性で決めてはいけない、ということ。

もっと考えを進めると、その今までの「良し悪しの基準」そのものが、
結構、怪しいんじゃないの?ということです。

なぜなら、今までのメインストリームたる人を決めていたモノサシこそが、
社会をこんなにも分断させ、地球をこんなにも破壊してきたからです。

人類の課題は人類みんなで作り出してきたので、すべて人類の責任ですが、
その人類の中でもメインストリームの考え方が、
この世界をリードしてきて、今、こうなっているんですからね。

もっといろんな人の声を聞こうよ、ということです。
分け隔てなく、聞こうよ、ということ。
そして、正しさの基準さえも、見つめ直そうよ、ということですね。



私が「こんな社会だったらいいな」と思う社会というのは、
すべての人が、自分でちゃんと考えている社会です。
どんな考えでもいいのですが、ちゃんと考えていること。

なぜ、そんなことを思うか、というと、
考える力を持たない人は、
実は「人権」を奪われている人だと思うからです。

人権とは、人の尊厳に対する権利です。

あなたがもし奴隷だったとして、
でも、自分が奴隷であることに気づかないとしたら?
それはある意味では幸せなことかも知れないとも思いますが、
やはり気付いて、ちゃんと自分の人生を自分のものにすべきだと
私は思うのですね。

だから、教育って大事なんです。
教育って結局は「頭の使い方を学ぶ場」だと思うのですが、
その方法がわからないまま大人になると、
実は人権を奪われているのと同じなんですよね。

選挙に興味がない、という人はたくさんいます。
その人たちは、一見、自分の判断で選挙を眼中から外しているように
自分では感じているでしょう。

でも、ちがうのです。
あなたが選挙に興味がないのは、
あなたから「選挙に興味を持つ力」が奪われていることであって、
それはすなわち人権を奪われているということなんですよ。

ここ、伝わるでしょうかね。

その結果、今、所得が年間200万に満たない40代の大人が
山ほど存在する社会が、この国に実現しているわけです。
ちゃんと人権を奪われている結果が出ていることが、わかるでしょうか。

今までの社会は、人の思考力を奪う方向で発展してきました。
とくに、ここ30年くらいはその傾向が強かった。
その弊害がどんどん出ています。

最近、教育現場がアクティブ・ラーニングとか、
クリティカル・シンキングなんてことを急に言い出したのも、
このままでは社会がどんどん無思考化して
社会そのものが崩壊してしまうという
リアルな焦りが出てきたからだと感じています。

社会って、その構成員である市民が、
何も考えないでいても勝手に成立できるというものではないんです。

社会をつくるために、ひとりひとりが
もっとお利口な人間でないといけないということですね。

どうしてか、というと、社会と個人、あるいは国と個人は
逆説的な関係におかれているからなのです。



人生が自分の思い通りにいかないことを社会のせいにする、
という姿勢は、とかく批判されがちです。

私もその通りだと思います。
自分の人生は、自分で切り開かなくてはいけません。

しかし、我々は社会の中で生きている、ということもまた事実なのですね。
ということは、自分の人生を自分で切り開くことの中のひとつに、
自分の手で社会を変えていく、
ということも含まれているということなのです。

つまり、気に食わないことを社会のせいにするのがいけないのではなく、
それを変えようとしない態度こそが、いけないのだと私は思っています。

では、一人一人の個人の責任を社会に負わせようと考えたとします。
ここでいう社会は、「国」と言い換えてもいいでしょう。
そのとき、我々がしなければいけないことは、
「社会に任せる」ことではなく、一人一人が意識を高めて、
主体的に社会に参加することなのです。

そうすることによって、個人の責任を負える社会ができあがるのです。

ここが「逆説」なんですね。

では、自分のことを社会に任せようとしてみましょう。
丸投げするということです。

そうすると何が起きますか?
社会は個人に自己責任を押し付けてくるので、
返って苦しい思いをするのは我々個人の側になる、ということなんですね。

社会と個人の関係は、現実としてそのような仕組みになっています。

個人の責任を負える社会は、みんなが参加して作る社会。
みんなが社会任せにしている社会は、個人に責任を負わせる社会。

そういうことです。

私が実現したい社会は前者であり、今の日本は圧倒的な後者ですね。

いい社会を実現しようとするなら、
我々自身がそれを作り上げるしかないのですね。
社会をつくる責任を、社会に丸投げはできないのです。



なぜはじめにダイバーシティの話をしたか、というと、
本当の多様性社会とは女性やマイノリティを
ことさらに取り沙汰しなくてもいい社会はなずで、

今はそこに向かう途中なので、「今までのステレオタイプな弱者」を
わざわざエンパワーしなければらなないフェーズなのであって、
本当のゴールは、誰もが分け隔てなく「自分でいられる」という
社会であるはずだと思うからです。

で、そうなるためには、ひとりひとりのみんなが自分の頭でしっかり考え、
今とはちがう考え方や価値観にならなければならなくて、
それらはあくまでも「個人の心の中で起きている現象」の集積である以上、
社会を変えていくためには、それぞれのひとりひとりが、
自分自身を自己変革していくしかないんですね。

社会を変えるとは、一人一人が自分を変える、ということ。
社会に順応させる方向に、ではなく、今とはちがう方向に、ですね。

社会は我々自身だからなのですが、
個人と社会の逆説的な関係性、面白いですよね。

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