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Vol.14 藤原氏⑦~藤原北家の時代へ

こんにちは、TKです。今日は、薬子の変から承和の変くらいまでの藤原氏の動きについて、書いていきます。

1.冬嗣の出世

薬子の変で嵯峨帝側につき、嵯峨帝の勝利に貢献した藤原冬嗣は、天皇から高い信任を受けて、出世していくことになります。

藤原冬嗣

冬嗣は、変の翌年(811年)に公卿になると、818年には大納言(大臣の補佐役)につき、3年後には右大臣に昇り、北家の中心に立ちます。また、藤原氏一族のために寮と学校を兼ねた勧学院という教育施設をつくりました。

一方、変の首謀者、仲成・薬子のいた藤原式家は弱体化してしまいますが、天皇の外戚になれたことと、百川の息子、緒嗣の右大臣昇任により立て直しが行われ、826年には綱嗣が公卿に上がり、後に息子の吉野も公卿になっていました。南家も、三守が公卿へと上っています。

2.良房の登場

826年に冬嗣は世を去り、北家は息子の良房が後を継ぎます。良房も嵯峨から父と同じように厚く信任されており、嵯峨の皇女、源潔姫と結婚を許されていたほどでした。そして、この良房の登場で、藤原北家は大きく繁栄することになります。

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ちなみに、良房の時代に入ったころの藤原氏の公卿は、北家が良房、常嗣(鳥養の子孫)、愛発(冬嗣の兄弟)の3人、式家が緒嗣(左大臣)、吉野(綱嗣の息子)、南家が三守1人で、6人がついていました。

3.平安時代前期の天皇家

つづいて、このころの天皇家の様子を見てみます。

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嵯峨帝は823年になると、弟の淳和帝に天皇位を譲ることとなり、自らは上皇として天皇家の監督的立場につきます。
ところが、ここで淳和の跡継ぎを嵯峨帝・淳和帝の息子のどちらにするかで対立が起きたと言われます。そこで淳和は対立を防ぐため、嵯峨の息子、正良親王を立て、次に自らの子、恒世親王をおきます。
ところが、恒世はまもなく世を去ってしまい、後継者問題がまたおきます。そこで嵯峨は、正良親王の後継を淳和の子、恒貞親王として、解決を図ったといわれ、833年に正良が仁明帝として即位すると、恒貞親王が皇太子になります。

これでどうにか天皇家の跡継ぎ争いはひとまず収まりますが、840年に淳和、842年に嵯峨の両者が亡くなると、事態が動き始めます。藤原氏による初の他氏排斥事件、「承和の変」が起きるのです。

4.承和の変

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嵯峨が亡くなってから2日後、嵯峨の皇后、嘉智子のところへ、橘逸勢と伴健岑が恒貞親王を立てて東国へと連れ出そうとしているという話が阿保親王(在原業平の父親)から伝えられます。

事態を重く見た嘉智子は良房に捜査を命じ、良房は関係者たちを次々と逮捕し橘逸勢と伴健岑は流罪となり、恒貞親王は皇太子の座を追われることになります。(橘逸勢・阿保親王はまもなく死去)これで、古代の名門貴族、橘・伴氏は没落し、藤原氏からも公卿の愛発・吉野の二名が左遷されます。

事件の後、良房は事件の収拾に貢献したとされ、大納言(大臣補佐)へ昇進し、嘉智子の信任を背景に妹の子、通康親王を皇太子に置くことになり、通康の下へ後に娘、明子を入内させることに成功します。このため、事件は良房による追い落としだともされています。

5.北家の繁栄

事件の翌年、冬嗣の弟、助が公卿に昇進するとつづいて良房の兄、長良と弟の良相も公卿に上り、北家の繁栄が始まります。

一方、北家と競っていた式家は、吉野を承和の変で失い、左大臣緒嗣も843年には世を去ったことで公卿がいなくなり、南家も840年に右大臣の三守が世を去った後は公卿が出せず、衰えていきます。これ以降、藤原氏の公卿は北家がほとんどを占め、他家からは大臣は出なくなり、公卿もまれになります。

次回は、良房・基経の時代を書こうと思います。本日もここまで読んでいただき、ありがとうございました。























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