見出し画像

自己肯定感低め会計士とアイデンティティ論-おまえは何者か

闘魂だ。おれは、おれであり続けることを大切に生きているつもりだ。よって「何者かになりたい」というポピュラーな心情について、これまでさほど注意を払って来なかった。今日はその問題を考えるヒントになりそうなものを紹介しよう。


■ おれはおれ、じゃないの・・・?

先日、てりたま氏(*1)が「自己肯定感」を話題に出していた。

おれは、例によって、無駄に自己肯定感高めの調子にのったスタッフを戒めるものか!とやにわに奮い立ったが、少しトゥイッターで会話をしてみたところ、昨今ではどちらかというと自信のない人が多い、とのことであり、どうやらそういう層に向けたハートフルなメッセージだったようだ。やさしい。

確かに、4~5年ほど前にBIG監査法人(*2)のパートナーから、最近のスタッフには「闘魂がよだれをたらしてわくわくする(*3)ような元気なやつは少ない」などと聞いたこともあり、感覚値として勤勉で大人しい人間の割合が増えてきているというのがあるようだ、とは認識していたものの、あまりピンと来てはいなかった。

おれはk本的にワンオペ会計士なので、ながらく実際にそうした若手と出会う機会はなく、たまに遭遇したかと思えば、何の武器も持たず勢いと根性だけで対上場会社市場に殴りこんでくるようなバッリバリに気合の入った特殊なやつ(あいつももういい歳だな・・・)だったりしたので、ふーんそんなもんかと軽く聞き流していたわけだ。

そんなこんなしているうちに、時代も移り変わり、最近では、客がBIG監査法人から逃亡してきたばかりの若手会計士を採用するという事例に当たることがポツポツ出てきた。そうなると、多少なりともおれの地位も向上しているらしく、おれにある程度そいつらの面倒を見る任務が与えられることもある。そうした接触を通じて得た限られたサンプルからではあるが、確かに、総じて勤勉で優秀だが、なんとも控えめだな・・・という印象を持った。おれは、事業会社に転職するのはそういうタイプの人たちなのかな、ぐらいにぼんやり捉えていた。

ちなみに、控えめではあるが、打ち解けて話をすると、きちんと組織に言いたいことも持ってたりするし、中にはまあまあ良い性格してますね、というやつもいるので、なんというか、根本は昔とそれほど大きく違わないような気もする。

ただ、一応文字が読める系上司(*4)みたいなやつなんかシカトして、関係者と協議してさっさと仕事を終わらせちまおうぜ!みたいな甘美な誘惑には決して乗ってこない。正直に言えば、おれはちょっともの足りないと思うし、もっとポテンシャルがあると思うのだが、まあ、結局社外の人間であるおれがとやかく言う事でもないので、一応おれもそいつを見習ってそうした悪魔的ささやきは控えめにすることにしている。

余談だが、転職理由を聞いてみると事業会社のほうが腰を落ち着けて仕事を学んでいけるんじゃないかと思った、などと言うタイプが多い。しかし、おれが投入されているということはだな・・・ここは色々な意味でハードな現場なのだ!残念だったな!

おれは人生が思い通りにならないことにかけてはベテランであるとの自信を持っているので、若者が「思ってたのと違う」という顔をしていると、とてもあたたかい気持ちになる。さあ、生き抜こう。

ともかく、

どちらかというと自信のない人が多い、ということは、おれから控えめに見えている連中は、単に控えめなタイプだというだけではなく、もしかすると、「自分なんかがガンガン言ったらダメなんじゃないか」ぐらいに思っている可能性が考えられる、ということだ。このことにおれは、マスターてりたまのショートサジェッスチョンを受けて、はたと気付いた。

というか、思い返せば、控えめクンがなんかそういう自信なさげなことを言ってたような気がしないでもない。おれと人種が違いすぎて気付かなかったが、なるほど、そういうことだったか・・・クーデターを無理強いしなくて良かったぜ・・・

となればだ、おれも将来は圧倒的老害として長きにわたり業界に君臨する事を目標としている以上、時代や人々の変化に合わせて世界観をアップデートし、他人の心の隙間に潜り込む手法をブラッシュアップしていく必要があるだろう。そう考える程度にはおれは無駄に意識が高い。これまでは年上のおじさんにかわいがられていればよかったが、年齢的に、今後は若者を勘違いさせることにも注力していく必要がある。

というわけで今回おれは、おれの老後ライフ、すなわちまだまだ長い人生を充実させるために、「自己肯定感低い問題」について、理解を深める必要があると考えた、というわけだ。

恒例の前置きはここまでだ。

■ 何者問題の存在を認識する

そこで今回入手した参考文献が、熊代 亨『何者かになりたい』だ。

(このブログはアソシエイトに入れていないので安心してクリックしていい)

本書は精神科医である著者が、「何者かになりたい」または「自分は何者でもない」といった、要するに何かわからんが自分に満足できていないという状態であるところの「何者問題」について、分析・解説を試みるものだ。軸になるツールは、発達心理学者エリクソンの「アイデンティティ論」の概念になる。

冒頭述べた通り、おれは特に「なりたいおれ」がないタイプの幸せな生き物だ。少なくとも現時点では。

より正確に言うと、「ああはなりたくない」は結構たくさんある。ただ、あんまり言うと全方位に敵を作るハメになるから、今日は言わないでおこう。闘魂さんは静かに暮らしたいのだ。

そんなおれにも、多少チヤホヤされたいとかはもちろんある。ただその願望は本業で目の前の顧客に対して真面目に向き合っていれば、自然とかなっていくものであるから、特段「満たされない感」みたいなものまでは感じていない。

なお、物を書くやつというのは多少は自己顕示欲があるもの(ソースはおれだ!)だが、おれは自分の書いたものが結果読まれないことについてはあまり気にならない。なにしろ、こと読まれないことに関しては今までの人生を通じてふんだんに実績があるのだ。長げえしな。

たぶん、世間に認められる価値があろうがなかろうが、自分なりに作品を作ることの方がおれにとってはずっと大切なことだからだろう。よって、おれがレポーティングに関わると、他人の文章をとにかく直しまくるので、すこぶる評判が悪い。スマン。

ところが、世の中では結構な数の人が、何らかの「何者かになりたい」を持っており、満たされない気持ちになったり、嫉妬という危険な魔物に囚われたりしているわけだ。おれは正直そういう気持ちがあまりよくわからないので、時折サイコ扱いされることがある。その割に妙に向上心だけはあったりするので不思議がられるのだが、基本的にただの好奇心で深い意味はない。

そういう「何かになりたい」という気持ちについて、友人とかつて激論を交わしたことがある。おれは当然、特にそんなものは必要ないと主張したが、「そういう本能的なモチベーションが人類の進歩と調和を支えてきたのであり、そこを否定するわけにはいかないのだ」との、苛烈かつ、ごもっともな反撃を受け、結局、おれがちょっと変わっているのだろうと結論し、すごすごと退却するより他なかった。

それ以来というわけでもないが、おれはここ何年か「何者問題」的なものはいったいなんであり、どうしておれには問題だと感じられないのだろう、という疑問を持ち続けてきた。本書を読んでみようと思ったのはそれもひとつの目的だ。

■ アイデンティティ論のポイント

人類の叡智の書wikipediaによると、エリク・H・エリクソン(1902-1994)(*5)は、ドイツ帝国生まれのアメリカの発達心理学者で、「アイデンティティ」の概念や心理社会的発達理論を提唱し、米国で最も影響力のあった精神分析家の一人とされる人物である、とされている。

「アイデンティティ(理)論」は、青年期から成人期をアイデンティティを確立していく期間である(モラトリアム的なやつだ)として、人間の発達をモデル化する際に用いられる概念である。おれたちは普段カジュアルにアイデンティティという言葉を使うが、思っている以上に専門的なもののようだ。

アイデンティティとは自己同一性である、などと言い換えてもサッパリ意味がわからない。一般的には、自分が自分であると確信できるような感覚とか、自分らしさ(*6)の事をさす場合が多いだろう。詳しい定義は注で見てもらえばいいし、特に一般的な意味以上に理解する必要もなさそうだから、ここではふれない。どちらかというと、本書が紹介するエリクソンの「アイデンティティ論」の大枠を押さえておくことのほうが重要なのではないかとおれは思った。

「アイデンティティ論」とは、自分という存在のナゾを究明する哲学なのではなく、多くの人が抱える「何者問題」を理解するためのフレームワークだ、と考えてみるとよいだろう。

その概要を、おれの理解に従って記すと以下のようになる。

・アイデンティティは構成要素に分解できる

直感的に、自分を構成するものは分解できそうだ。会計士である、ペーパーテストが得意だ、簿記が苦手である、etc...。

構成要素は、個人的な属性だけでなく、他者や社会との関り、居場所のようなものも含む。誰の家族だ、友達が多い/少ない、BIG監査法人なる闇の巨大シンジケートの構成員である、地下アイドルのファンクラブに入っている、etc...

物なんかもそうだ、BALENCIAGAと書いたシャツを着ている、背伸びしてスリーピースを着ている、スーパードライ党だ、etc...

・構成要素は獲得/喪失される

例えば成長に伴い、小学生out→中学生inといったように構成要素は変わっていく。試験に受かれば公認会計士という構成要素を獲得できるし、重大なやらかしをすれば登録抹消(*7)により喪失することもある。また、歳をとれば組織から離れることもあるだろうし、家族、友人や仲間は、人間である以上はいずれ必ず失われる。おれもおまえも例外ではない。


以上、意外とあっさりしている。要するに、アイデンティティというものは、全体としておまえかおまえ以外かを区別するような概念ではあるが、取り扱う場合は構成要素に区分したほうが扱いやすい、と理解すると簡単で良いだろう。おれはなんでもシンプルにするのが好きだ。

なお、おれは精神論をこよなく愛する人間ではあるが、精神とかのPROでは全くないので、もっと詳しく正しく知りたい人はそれなりの本を買うと良いだろう。今日紹介した本は、たぶん、真面目に読めば半日ぐらいで読めるようなわりと軽めの読み物に仕上がっているので、入り口としては良いように思う。

■ アイデンティティ論から見えてくること

「何者問題」とは、結局のところ、アイデンティティの構成要素に不足を感じている状態のこととほとんど同じである。その状態では、おれはおれだという確信も持てないし、自信も持てない。
そして「自己肯定感」とは、ありのままの自分を肯定する感覚の事である。それが低いという事は、ありのままではいけないと思っている、ということだから、何かになりたいと思っている状態、と言い換えることも出来そうだ。

おれは、パッと見でこれは同じ話をしていると思った。人間は複雑なので、実は全然違うみたいなパターンもあるかもしれないが、多くのケースに当てはめて考えてみることが出来るだろう。

ここで不思議なのは、たいがい苦労して会計士試験に受かり、少なくとも会計士試験合格者という経済社会では有数と言っていい強力なアチーブメントを構成要素として獲得したにもかかわらず「自己肯定感」が低い、つまり、まだ何者かになりたいとはどういうことなのか、という点だ。こういう問題が生じるところがアイデンティティというもののややこしいところだろう。

・選別された集団の難しさ

その理由のひとつが本書で紹介されている。当該アチーブメントが所属集団内ではさほど希少なものではない場合には、自分が何者になったとも感じられない、というケースである。監査法人に入所すると周りがほとんど会計士である、というのはまさにこの典型例と言える。

世間的に見れば立派な肩書かもしれないが、現実の自分の職場では、平凡なワンノブゼムに過ぎないじゃないか、というわけだ。しかも、優秀なやつは周りに死ぬほどいっぱいいたりするのである。

おれ自身も、会計士の商売敵はたいてい会計士なので、それだけでは特に足しにはならない、という事を言ってたりもするわけだが、案外この問題は、会計士のメンタリティに大きく影響を与えるものなのかも知れないな、という事を思った。

独立組としてのおれの感覚では、市場は結構広いので、単に会計士であるだけでも現実に食うに困ることは基本的にほぼ無い。ただ、スモールに平凡な事をしていると、確かに他の会計士と比べたときにスゴイと評価されることはあまりないだろう。それをおまえがどう感じるか、というのは個人の生き方にそれなりの影響を与え得る問題である。

会計士のどれぐらいに当てはまるかはわからないが、自分が会計士というPRO集団に属している事が、アイデンティティの重要な構成要素になるのは当然だろう。おれだって自己紹介しろといわれればそう言う。

その結果、知らず知らずのうちに、当該集団内でさらに何らかのトロフィーを持ち、特色を打ち出せなければ自分は何者でもないような気がしてくる、みたいなことは十分にありそうなことだ。

ウリがなければBIG監査法人での出世にもひびくから実際問題切実だ。英語とかITとかその他のニッチな知識とか、いわゆるカケザンみたいなものがみんなの興味を引く背景には、そういう面があるのだろうか、ということを思う。

・おれの価値観を分析すると

一方で、仕訳さえ切れたら、あとは、いつ誰にどのようにそれを売るかが、生きていくうえでまさに重要なことなんだ、というのがおれの考え方である。つまり、能力的に会計士集団の中で突出できる要素を何か持とうとは特に考えていない、ということだ。為念だが、スキルを磨いたり新しいスキルを獲得するために努力する人々をdisったりはしていない。むしろ、ちゃんとしててエライと思っているし、そういう有能な人間が増えることは社会全体にとっては間違いなくプラスだろうと考えている。

そういう、ウリにできるデュアルスキルみたいなものについて、「おれは別にいい」みたいな割り切りが出来るのは、アイデンティティ論的に言えば、「能力の高い会計士であること」が、おれがおれであることにとって、あまり重要ではないから、という事になるだろう。言い換えれば、会計士であることの他に、おれはおれのアイデンティティを構成する大事な要素を多数持っている(と自分では思っている)、と言えるかも知れない。確かに、おれは好きなものや面白いと思うことを沢山持っている。

そういうおれの価値観は、「そもそも、仕事の出来不出来ごときのことで否定されるほどおまえの人生はくだらないものではない。」という、若干盛り過ぎな気配のあるメッセージにもストレートに現れている。

考えてみると、おれは過去何度か、仕事論のふりをしながら、自分の楽しい時間を持て、とか、わかりやすい役立つスキルとかよりも、おまえの好きなものを何か仕事に活かせないか一度考えてみろ、というようなアヤシイ主張をしてきたように思う。そしてそれをうまく使って、良好な人間関係を作ろう、それが次に繋がっていくんだ、という旨の事を言ってきている。人と自分との関係も、アイデンティティの構成要素のひとつだ。

そういう風なことを考えていくと、(仕事に)自信がありません、を解決する処方箋は、頑張って仕事を覚えていくことではなくて、仕事以外にも自分にとって大事なものをたくさん見つけることなんじゃないか、という、なんとも不思議な答えが導かれる。

ただ、これを不思議に感じるのは、自己肯定感の高低について、仕事という側面から見すぎてしまっていることに原因があるのではないか、ともおれは思う。

・成功というアイデンティティの喪失

仕事は人生でかなり多くの時間を費やすものなので、決してナメてはいけない構成要素ではあるが、自己肯定感の高低とダイレクトに結びつけるべきとも限らない。根深い部分で自分を形作るものが見つけられていないという人が、仕事でのアチーブの1点突破でアイデンティティの大部分を満たしたとしよう。そいつが、仕事で不運にも大きな失敗をして、仕事でのアチーブという極めて重要な自分の構成要素を喪失したらどうなってしまうだろうか。

アイデンティティの構成要素の喪失が、人間にとって重大なストレスであることを、おれは経験上良く知っている。会計士のような資格商売では、ライセンスの有無や処分歴はかなり重要なことだ。当然、詳しくは言えないが、何らかの処分をくらうかもしれないという恐怖に囚われた人間がどうなってしまうか。同じように、社長の地位とかそういうものでアイデンティティの多くを埋めている人間がピンチになるどういう行動に出るか。おれはいくつも悲哀に満ちた事例を知っている。

おれはそういう場面を目の当たりにした際に、金銭的な事ももちろんキツイが、メンタルに受けるダメージのほうが圧倒的に人間にとってはヤバいのだという事を学んだ。しかし、見ているとその深刻さ度合いは、どうも人によって結構差があるようなのだ。危険が迫っているというだけで、顕在化する前に相当様子がおかしくなってしまうやつとかもちょいちょい出てくる一方で、多少アルコールの量が増えるぐらいで、最後の最後まで武舞台の上で闘い続けられるような極めてタフなやつもいる。

人生に失敗はつきものだ。おれが考える人生を豊かにする要素のひとつには、もうオワった、ダメだ、という挫折があったとしても、数日寝込む程度で立ち上がれるしなやかさを備えていることがある。それを持つためには、適切なレジリエンスを備えたアイデンティティポートフォリオを確立すべく日々を過ごすことが大事なんじゃないかとおれは考える。そういう意味では、カネはないと困るが仕事は所詮仕事である、といったバランス感覚は、結構重要なんじゃないかとおれは思うわけだ。数ある楽しみのうちのひとつだからアツくなれるという面もある。

まあ、仕事が面白くて仕方なくて、無限に働きたくていてもたってもいられないような変態が、敢えておれの話を聞く必要もないとは思うが、多様な仕事との向き合い方があり、それが時と場合によってはリスク耐性に大きく影響することもある、ということは知っておいても良いのじゃないかと思う。多くの人はそういう変態ではないだろうし。

もう一つ付け加えるとしたら、ブランドの問題だ。個人としてブランドを確立せよ、みたいな話は昨今よく見聞きする話であろう。少し端折るが、おまえのブランド力が強ければ強いほど、喪失の痛手は大きくなる。また、多くの人が自分のもとから去っていった、みたいな喪失もセットでついてくる。商売のやり方としては、特段否定も肯定もしないが、強すぎる名声は時としておまえのアイデンティティを窮地にとても弱いものにしてしまう可能性がある点には留意しておいたほうがいいだろう。

もっとも、おれ自身はスゴイブランドを確立したりした経験は全くないので、これ以上具体的な事は言えない。ただおれが言えるのは、おまえの名声ではなく、生身のおまえ自身のことが大好きなやつは、おまえの身に何が起ころうとも必ず助けてくれるが、他はそうとは限らない、ということだけだ。おまえのことが本当に好きな友達とかは超大事にしたほうがいいし、わが身可愛さが透けて見えるようなやつとは、そこそこの付き合いにとどめておいたほうがいいだろう。まあ、一般常識かも知れないけどな。

・長くなっていくモラトリアム

会計士試験合格者が昔より平均的に若くなっていることは一般によく知られている事かと思う。アイデンティティ論の歴史をひも解くと、エリクソンが議論の前提としていたのは、思春期であり、要するに就職するぐらいまでの期間の事だ。当時のアメリカでは、現在ほど人材に流動性がなかったため、就職するという事は、ほぼほぼ生き方が決まってしまうことに近かった。つまり、何かしら仕事を選んでしまえば、それは必然的にアイデンティティの重要な構成要素となることから、「何者問題」もそこでいったんは終わってしまう、ということだ。もちろん、失職したり、家族を失ったりして心に穴が空いてしまう事はあるので、永久におわりという事ではない。

ところが、現代はそれとは全く状況が異なる。昨今、会計士業界でもキャリア相談的なものが盛んに行われている事からわかる通り、ファーストキャリアとしてBIG監査法人を選ぶ人間は依然として多いものの、その後、何をしていくか、どういう会計士になっていくか、という部分については、全然決まっていない、という事がもはや当たり前であるかのような状況になっている。つまり、新人やスタッフの頃はアイデンティティが必ずしも定まらないモラトリアムの状態にある、ということだ。ゆえに、アイデンティティの構成要素は不十分であり、「何者問題」や「自己肯定感低い問題」が当然生じることとなる。

ここで指摘しておきたいのは、それはそれで問題ないのでは?というところだ。

アイデンティティの構成要素が不確定であり、結果不十分であるということは、まだ将来方向に大きな選択肢の広がりを持っている、ということでもある。ここで「何者かになりたい」となにかしら努力をすることは、健全な成長のためにはむしろ望ましいことだろう。「自己肯定感低い問題」を単なるモラトリアムじゃん、と捉えなおすと、自分に自信を持てないという事は至極当たり前なことであるし、同時に可能性の面ではポジティブなことでもある。つまりそれほど思い悩むようなことでもないということだ。そんな一言で悩みが晴れるわけでもないだろうが。

ミドルたちには、もの足りないなどと言わず、あたたかい視線で若者をサポートすることが求められるだろう。(自分のことをタナにあげるのは、健康上良いことだとおれは思う)

・こころの隙間セキュリティ問題

まじめに気を付けたほうが良いのは、アイデンティティ構成要素の不足みたいな、いわゆる「心の隙間」は攻撃者から非常に狙われやすいという点だ。怪しい自己啓発セミナー、特別な人だけに紹介されている儲け話、下心飛び交う社会人サークル、羽毛布団、霊験あらたかなツボ、そして情報商材めいた高額note・・・。

人は、心に空いた空洞みたいなものが大きいと、意外とあっさりそういう罠にかかってしまう。こういうのは、自分だけは大丈夫だと思っているやつの方が危ない。案外普通の人の身に降りかかる災難なのだ。特に異性を活用したトラップはその道のPRO(かかるほう)に言わせると、わかってても回避は不可能だという。おれの知り合いは、ハニートラップに引っ掛かって不穏な事務所でツボを買わされそうになり、便所に行くふりをして二階から飛び降りて逃亡したことがあるらしい。

普通に毎日自分に満足しているやつでも、ボーっと生きている場合、必ずしもAHOなトラップを回避できるとも限らないが、「何者かになりたい」みたいな気持ちが強すぎると、そうしたものの餌食になりやすいのは確かなので気をつけたい。おそらく攻撃者側も、ヒットが出やすいターゲットのプロファイルを把握しているはずだ。おれがこれを書いたばっかりに会計士試験合格者が、「ワンチャンありそうな飲み会サークル」みたいなもののターゲットリストに加えられる、ということは流石にないと思うが、ワークライフバランスみたいなもので生まれたアフターFIVE的時間を有効に活用しよう!と思って、間違った交流会に行ってしまうとかは、普通にありそうな話だなと思わなくもない。

一方で、これも結局はメリット・デメリットの比較衡量の話である点も押さえておきたい。まっとうな教育産業とて、誰かの「何者問題」をメシのタネにしていることには違いないのだ。それが、誰かのペインに手を差し伸べる優しいサービスなのか、もっぱら搾取を目的としたカツアゲめいたものなのかという評価は、案外難しいようにも思う。かく言うおれも、そうした天使と悪魔の境界線上で商売をしている自覚がある。

おれは主に組織と契約し、組織のために働いているが、具体的には目の前のCFOとか経理部長とかのペイン解決をしているわけだ。ターゲットである個人は、おれがいると楽ができる、そしておれがいないと困る、という状態に置かれることとなる。おれの仕事はそいつの仕事上の成果や評価にもつながるので、アイデンティティ上の問題に派生する恐れがある。

そしておれは営業上その標的たる個人を経理部スタッフや内部監査部門、総務部などへとどんどん増やしていくことをするわけだから(悪いが仕事なんでな)、徐々におれとの関係が自らのアイデンティティ上の問題に飛び火する可能性のある人が増えていくことになる。

そうするとどうなるか。中長期で目指すべき組織の在り方・・・教科書通りに重要な技能は内製化すべきだ・・・と個人の利害・・・面倒ごとは闘魂にでもやらせとけよ・・・の目指すところがだんだんズレてきて、組織全体にとっておれがいることが良いことなのかどうかなのか、もはやわからなくなってくる。そして、最終的に、おれは同業者から「依存症ビジネス乙ww」などと揶揄されるわけである。やり過ぎには注意しろ。おれは軌道修正が大変だ。

ちなみに、強固な依存体制が確立されると、奇妙なことが色々起こる。具体例を書いてみようかと思い、一度書いてみたのだが、おれ自身が読んでも嘘っぽく見えたので、今回は見送ることにした。事実は小説よりなんとやらである。

・アイデンティティはおまえの中だけにはない

「アイデンティティ論」というフレームを通してみて改めて気付くことに、自分を形作るものは他者からの視線であったり、他者のとの関係そのものであったりして、やはり自分が何者かということは自分の中だけでは決まっていない、ということがある。社会の中で自分がどういう属性を持ちどういうポジショニングで認識され得るか、ということが多くの人の関心ごとである点については、日常感覚ともフィットするのではないかと思う。

なんだか自信(自身)が持てないなあ、そんな時、もっぱら自分磨きに励むべきとは限らない。安心できる人間関係を築いたり、自分に似合う、自分が評価される居場所を探したりするという方向でも色々な方策が考えられる。が、それには多くの人と出会ったりして人間関係を作っていく取り組みが欠かせないだろう。自分の内だけではなく、自分の外にも、いやむしろ外の方に目を向けていくほうが良いこともある。

著者は本書のまとめとして、「何者問題への処方箋」という章を設けている。そこでも、コミュニケーションが苦手な人は、アイデンティティ獲得において不利である可能性が高いと言わざるを得ない、という旨のことが書かれている。やはり他者との関係をうまく作れるかどうかは「自己肯定感低い問題」をクリアする上で重要な要素となってくるのだろう。

これに関しては、先人たち(*8)がさんざん言っている通り、さすがにヤバい短所を直すとか、謙虚さを維持するとか、他人の気持ちをわかろうと努力する、といった事で一つ一つ対処していくしかないだろう。ただまあ、そういうことが自然と出来そうな人を想像すると「自己肯定感ありそう」という気もするので、これにはいわゆる鶏卵問題的な側面もあるように思う。

だからと言って、何もしなければおまえは一生そのままだ。なんでもいいから自分をカイゼンできそうな取り組みをしてみるといいだろう。

■ おれからのメッセージ

見てきた通り、「アイデンティティ論」は「自己肯定感低い問題」みたいなものを理解するためのひとつの視点を提供してくれるわりとよさげなフレームワークだ。もちろん、人間は複雑なので、これが正しいとか正しくないとかそういうことではないが、いくつかおれたちが「自己肯定感低い問題」と向き合うためのヒントが得られたように思う。最後にそのあたりの話をしよう。

なお、「何者問題」について特に悩んだことのないおれの言う事であるから、信憑性がアヤシイことには疑いがない点、留意する必要がある。このテーマをより追求したければ、精神みたいなもののPROに教えを乞うしかない。間違っても精神論者に聞いてはいけない。

<自己肯定感に自信のない人>

・先ずはおまえの構成要素を棚卸しろ

何事も現状を把握することからスタートする。まずおまえが持っているものを把握しろ、それも細かめにだ。無意識のうちに、自分ではあまり価値があると思っていないものは棚卸除外してしまう可能性が高いので、網羅性には十分留意しろ。監査人であれば、自分の中を徹底的に棚卸するなど朝飯前であろう。他人の在庫など棚卸している場合ではない。そこから、自分のイメージが浮かび上がって見えてくればラッキーだし、イケてるアイツにあってオレに足りないもの、みたいなものが見えてくるだけでも儲けものだ。要するに、自分と向き合う時間を作れ、ということだ。

・なんでもいいからプラスしろ

人でも物でも、魔法少女のアニメでもいい。自分の好きな、自分に合ったものを探せ。そうしたすべてのものがおまえのアイデンティティの構成要素となる。選別する必要はない。雑食であれ。

もちろん、仕事に関連する領域に興味があれば、それを伸ばすのが効率の面で良いだろう。そうだな・・・おれは今一つそういう事には興味が薄い。おまえが仮に、会計の深淵とか、ビジネス現場にやってきそうな最新のテクノロジーとかそういうものに自然と関心を持てるのであれば、たぶん、おれよりおまえのほうが会計士に向いている。そういうことだろう。

そういう才能のあるやつまで、無理にSF小説を読んだりする必要はない。そっちの路線はおれが担当するから任せておけ。

・どうすべきかわからなくて当然だ

おまえはまだ「何者になるべきか」を迷っている段階にいる可能性がある。つまり青春だ。おじさんはうらやましい。人生は長い、おまえの知らないこともまだまだ沢山ある。焦る必要はない。「何者問題」をクリアする、つまり「何者かになる」選択をしたやつは、「選ばなかった他の何者か」の可能性を捨てた、ということでもある。

そう言われると余計迷うかも知れないが、おれ自身の考えも追加しておこう。

まず、「コネクティング ザ ドッツ」という話がある。ジョブズの有名なやつだ(*9)。要するに、自分の経験したテンでバラバラなことが、長い年月を経て突然結びつき、何かを創造することもある、そんな話だ。この話のポイントは、将来を見据えてドットを打っていけよ、ということではなく、たまたま自分の打ってきたドットが思いがけない繋がり方をすることもあるから、将来どういう成果になるとか考えずに目の前のことを一生懸命やるといいよ、というところだ。

この話に関しておれは、コネクティングすることにもちゃんと意識を向けたほうが良い、という点を追加すべきだと思っている。おれが、おまえが好きなものに熱中した成果として取得した資産が何かないか、それが人生に活用できないか、そういうことを考えてみろ、などと言うのはそのためだ。

コネクティングする能力が高いやつはランダムなドットからでも素晴らしいヴィジョンを描くことが出来る。詭弁みたいなものかも知れないが、一見無関係なことをつなぎ合わせてストーリーをクリエイトする能力は、ビジネスの様々な局面で威力を発揮するし、人間はそもそもそういうことが大好きなので、鍛えて損をすることは無い。悪いことには使うなよ。

「コネクティング ザ ドッツ」を引き合いに出したのは、迷っている段階では効率よく正解を実践しようなどという風には考えないほうが良い、ということを言いたかったからだ。パッと見て気になることや、好きなことをとりあえずやってみればよい。むしろ難しいのは「好きなものを見つけること」だ。

なんか好きなものがあるやつは安心していい。問題は「思い当たらない」やつなのだが・・・これに関しては年齢とともに難易度が上がっていく傾向があり、おれの中でいずれ解決すべき難問として立ちはだかっているが、スマン、今は答えがない。シンプルに実践すべきことだけを言うと、だまされたと思ってなんでもやってみて、面白さがわかるまで出来るだけ続けてみろ、という事に尽きる。

<指導する立場の迷える人>

・前述の事を念のため点検しろ

現代人の思春期はとにかく長い。監査役とかの身分が半ば約束されているのに、インターネット世界に殴りこんでくる偉大で風変りなBIG監査法人OBもいるような世の中だ。おまえがまだ思春期真っ只中でも何ら不思議はない。人のことをどうこう言う前に、おまえ自身を見つめ直すことは言うまでもなく重要だ。

・おまえの部下はまだ思春期だ

かつてのおれのように、他に行くところがなく「試験と心中」的な覚悟を固めて入ってくる人間と、多くの可能性を持ったまま入ってくる連中とではかなり性質が異なることを理解する必要があるだろう。おれたちが、そうした思春期人材に対してできることは、そいつが自分に合った興味関心を見つけられるようにサポートしてやることぐらいだ。おれたちは必ずしも教育のPROではないし、そればっかりやってるわけにも行かないので、なかなか難しい問題だ。

しいて言えば、これをちょい足ししてみたらいいんじゃないか?みたいな提案はしてあげてもいいかもしれない。どうしろというのではなく、こんなのもあるよ?という感じだ。そう考えると、おれが触れ合った大学教員みたいな連中は立派だった。学生には真面目なのもいい加減なのもいるのをよく理解していて、何をしろとは言わず、ただ面白そうな理論の紹介とかだけをしてくれた。おれもついつい自分の考えを押し付けてしまいそうになるが、あたたかく見守られる大人でありたいものだ。

<最後に>

冒頭を振り返りながら話を終わろう。おれはおれであり続けることを大切にしていて、なりたくない自分を沢山用意している、と言った。それはどういうことかというと、おれは自分を見失うことがとにかく嫌だ、ということだ。

世の中には、やたらと誘惑が溢れている。「みんなが良いというもの」みたいなものを追いかけていると、いつか自分は自分でなくなってしまうのではないか、そういう恐れがおれの根本にある。ただ、成長するということは、部分的に自分が自分でなくなっていく事でもあるだろう。それは一定程度、受け入れざるを得ない。

そこで、おれは自分らしさみたいなものをある時に定めることにし・・・たぶん働き出してからだと思う、30手前になってからだろう・・・座右の銘として掲げることにした。それを紹介しておこう。借りてきた言葉であるが、過去を振り返ってもおれの行動には良くあてはまっているように思って気に入っている。

大人たちにほめられるようなバカにはなりたくない

甲本ヒロト『少年の詩』

なお、これを愚直に実践すると、人生はとんでもないことになる。だが何とかなる。

以上だ。

ーーーーーーーーーーーーーーーーー

*1 最近なぜか「闘魂チームの切り込み隊長」を自称したりしているのでおれは心配している。もちろん、おれはそんなチームの存在を知らない。

*2 当該監査法人はおれの作品によく登場するが、これは「ビー・アイ・ジー監査法人」という架空の監査法人であって、いかなる実在の組織を指すものでもない。つまり、おれの作品はフィクションだ。いいね?

*3 おれに関するゆがんだ認識については直ちに厳重に抗議した。ちなみに、一見真面目で大人しいタイプの中にも、ブラックユーモアが実はめちゃくちゃ好きとか、そういう性格の悪いやつがたまに混ざっているので、おれはそういうやつの匂いをかぎ分けて悪いことを教えることを得意としている。勝手に寄ってくるからな。

*4 kazu氏(@kazu27511059)が開発した「字が読めることぐらいしか取り柄が見当たらない」架空の上司像。組織人は大変そうである。なお、ほとんどの場合、いけてない直属の上司みたいなやつは、他部署からも良く思われていないので、案外容易にskipできる。おすすめはしない。

*5 エリク・H・エリクソン
https://ja.wikipedia.org/wiki/エリク・H・エリクソン

*6 「わたしはわたしである」とか「わたしはわたしらしく生きている」といった確信に近い感覚、であり、エリクソンによるとアイデンティティの感覚とは、「内的な斉一性samenessと連続性continuityを維持しようとする個人の能力と、他者に対する自己の意味の斉一性、連続性とが一致したときに生じる自信」である。(コトバンク)
https://kotobank.jp/word/アイデンティティ理論-2099708

*7 ちなみに滅多にない。処分基準を読み込んでいるのはガチ勢と思って間違いない。

*8 具体例はてりたま隊長のnoteより拝借した。

*9 2005年にスティーブ・ジョブズがスタンフォードの卒業式で行ったスピーチの内容。締めの "Stay Hungry. Stay foolish” も有名。
気が付くと、もう20年近く前の話なのである。教育現場等でもそれなりに紹介されていると思うが、もしかするとぼちぼち知らない受験生も出てくるのかもしれない。


誠にありがたいことに、最近サポートを頂けるケースが稀にあります。メリットは特にないのですが、しいて言えばお返事は返すようにしております。