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今年こそ長文を書いてみようかなと思っている人へ

これを書いている途中で、悲しいことに元旦に石川能登地方で地震が発生しました。被災者のかたや、親族・知人が被災されたかたは、新春どころではないかと思います。被災地域におられる方の無事と、一刻も早い事態の収拾を祈ります。

2024年が始まりました。昨年は、弊noteがナゾに発掘されるという事件をきっかけに、多くのかたとのネットでの交流の機会を持つことができ、楽しい年になりました。ありがとうございました。本年も、引き続きマイペースにインターネットライフを続けていこうと思っておりますので、物好きのかたは引き続きよろしくお願い致します。

さて、年末年始といえば、新年の目標みたいなものを一応みんな考えたりするものかなと思っています。中には、noteでも何でもいいですが、自分の考えを長文でまとめてみたい、定期的な発信に取り組みたい、そんなことを思ったり、SNSでつぶやいたりしてしまった人もいることでしょう。何個か見ました。見ましたぞ!

12月に各種アドベントカレンダーなどが盛り上がっているのを見て、「自分もできたらいいなー」と、なんとなくそんなことを1回ぐらいは思ったかたもいらっしゃるのではないかと想像しています。いいですね、書きましょう。

ところが、新年の抱負というものは、3日もてば優秀なほうということが古来から知られています。人間は弱いのです。「こういう準備作業をして・・・」、「まずアウトラインを作って・・・」などと考えているうちに、家族サービスが足りないと怒られる、みたいなアクシデントが発生し、気が付いたら冬休みは終わります。そして、仕事に戻ればアッという間に日常に忙殺され、なんか知らないうちに立派な目標のことは忘れてしまう。そういうものでしょう。

新年の目標の中でも、仕事上の目標とかは、日々を頑張っていれば何とかなったりする比較的有望なものです。しかし、「誰にも頼まれていない創作活動」のようなものは、数ある目標の中でも最弱・・・。趣味系目標の中でも、特に地位があやしいものであることが広く知られています。私の中では「来年はソロキャンプとかやってみたい!」と同程度に達成が難しいものとみなされています。

これは新年の抱負に限らずで、私もこれまで幾度となく「おれもなんか書いてみようかな」、「そんなことならいくらでも書ける」といった勇ましいお言葉を(主に飲み会の席で)聞いてきました。もちろん、実現したケースはほとんどありません。残念なことですが、まあ、面倒だし、特に義務があるわけでもないし、という気持ちもわからなくはないです。

しかし、本来、テキストを作るのはそれ自体が楽しい作業のはずです。創作活動というと大げさに感じるかもしれませんが、紛れもない創作活動です。メディアを問わず、作品を作ることは結局は自分を表現することであり、それ自体に本能的な楽しさが潜んでいます。それを体感せずに、潜在的には書けるはずの人たちが、野に多く眠っているのはもったいない話だ、と私は常々思っており、隙あらば誰かを引きずり込もうと狙っているわけです。

というわけで、このテキストを用意しました。布教活動をするなら、年間を通じて最も志が高く、時間のある瞬間を狙うに限ります。

想定される利用者は、書いてみたいなと一瞬思ったけど、書かない理由がいっぱい思い浮かんで最初の1本が書けなくなってしまうような人です。誤解がないようにいっておくと、特にdisっているわけではありません。慣れた書き手でも、結構同じような事を悩んだりしてしまうものだと私は思います。本記事は、ありがちな書かない理由のいくつかを取り上げて、そんなの気にしなくていい、という事を言っているやさしいもの(になるはず)です。ご安心ください。

ただ、自分には実は「書きたいが第一歩が踏み出せない」という経験は特にありません。幸せなタイプです。なので、こういう感じで行けばいいよ、という話を今日は自分なりにしてみるわけですが、それはもしかすると、的外れになるかも知れませんし、とてもありきたりなことかも知れません。ただ、世に出してみないことにはそれもわからないので、一応作ってみる事にします。加えて、自分の考え方も、随時アップデートされていくので、今日言う事は現時点の暫定的な考えに過ぎないというところも、少し気になるところではあります。そんなことを言っちゃっていいのだろうか?もう少し考えてみるべきでは?そういう声は常に聞こえてきます。

まあでも、書いたからと言って必ず世に出さねばならないという事もないので、取り敢えず筆を進めてみましょう。アップデートや訂正があれば、あとから直しても全然OKだと自分は思っています。きれいに書けなくてもたぶん問題ありません。

商業作家や学者じゃあるまいし、そんなに気負う事ではないのです。さあ、気楽にいきましょう。


Lesson1 作品の価値は世に出してみないことにはわからない

そうです。これがすべてだとも個人的には思っています。書けない、世に出せない、の背後に「世に出すほどの価値はないのではないか?」という不安が潜んでいるケースは、少なからずあると思っています。まあ、わかります。別にバズろうとは思っていなくても、多少なりとも面白かったとか、ためになったとか、そういう評価をもらいたいものです。「自分ごときに出る幕はないのでは・・・」そんな風に考える人もいるかもしれません。

ですが、自分が書こうとしているものに意味や価値があるかないかについては、事前には考えてもよくわからない、というのが結論です。

Youtuberたちがよく話しているのと同じで、気合の入った動画がまったく回らず、片手間で作った雑談動画がひたすらバズるみたいなことはテキストでも往々にしてあることです。私にも、どうしてみんなこれを読むんだろうと不思議に思う記事があります。残念ながらnoteの解析でわかるのはPV数とか「スキ(いわゆるイイネ)」の数とか限られた情報だけなので、単にクリックされているだけなのか、それなりのページ滞在時間があるのかはよくわからないのですが、大雑把に言うと、PV比でイイネが多いものはたぶん良いものだし、少ないものはたぶんつまらないものなのだろうと思っています。

これは実は、書いている本人の手ごたえとは、必ずしも一致しません。継続的に記事を書いている人に聞けば、ほとんど全員同じことを言うと思います。PROの編集者でもついていない限り、記事が良いかどうかは、書いて出してみるまでよくわからないです。仕事でも、なんてことない作業が人にやたらと感謝されて、「めっちゃ頑張った!」と思っている仕事に限って、そんなに評価されなかった、ということはありませんか?

そういうものです。

あなたに仮に、これぐらいなら簡単に書けるな、と思うことがあるのであれば、「こんな簡単なことはわざわざ言うほどではない」と考えずに、あなたの当たり前を当たり前に形にしてみてください。案外、そういうものが予想外にウケたりするものです。

人に与えられた時間やその他のリソースは限られています。自分が日々当たり前に経験している事を、他人はまったく経験していないということはよくあります。そういう人にとって、あなたの世界は新鮮です。これと矛盾するようですが、あなたと似た経験をしていていて、同じような憤りを感じたり、同じような悩みを持っていたりという人も必ずいます。そういう人にとってあなたの世界は共感に満ちたものに見えるはずです。

また、あなたはもしかすると、世の中に作品を提示するからには、斬新な視点やインサイトを提供しなければならないのでは?と、立派な思いを持っているかもしれません。それが出来ればもちろん良いですが、死ぬまでに一回ぐらいできれば十分じゃないかと私は思います。小学校の先生は、当たり前に社会人が知っておくべきことを、何十年も教え続けます。それに価値が無いとは思いません。私とて、今まで何回、費用と収益を対応させないと経営成績は測れません、という話をしてきたことか。当たり前の情報は出番が多いので、何べんでも必要になります。

つまり、何であろうと「あなたの当たり前」を形にして伝えることには意味がある、ということです。本当にありきたりであっても、そういう記事が1本増えることに意味がある。なぜなら、その情報に人が辿り着く可能性が増えるからです。現代ネット社会ではそういう風に言ってみることもできます。考えを形にすることには、それ自体に価値があるのです。もうここまで来たら、だまされたと思ってそう信じてください。

世界は広く、人間は沢山いて、作品には色々な受容のされかたがあります。「なんかほっこりした」、「中身はわけわからないが勇気が出た」、そんなウケかたもあり得ます、というか、むしろそういうもののほうが書きたい!と私は思います。なかなか狙ってできることではありません。ただ、作品を世に出してみて、感想を聞いてみる機会を持つと、自分の持ち味が一体どういうものなのか、そういう事が徐々に見えてきます。ただ、それには記事の本数が必要です。

何か作品を書いたとして、これ面白いのかなあ?そう思ったら、まず公開する。それで十分です。

【そうはいっても外したくないな、という人向けのTipsなど
サラッと読んで頂ければ。

あたる/あたらないについて、経験上言えることはいくつかあります。例えば、何年も温めたアイデアで、居酒屋トークでもウケがいいものとかをテキストにした場合は、評価が良くなりやすいです。いわば「原作モノ」です。そういうテッパンを持っている人は、今すぐ書いてください。これどうなのかな?と思っているアイデアがあれば、親しい何人かにまず話してみると、感触を予め確かめることが可能です。

継続的に記事を生産していると、中には今日思いついたものとか、時事ネタに乗ったものとか、そういうものも作る事があると思います。そういうものがウケるかどうかは最初は正直「賭け」かなと思います。沢山書くことでしか、これはウケる、これはウケないだろう(でも書きたいから書いちゃう!)みたいな感覚は養われないと思います。

「必ず当てたい」と考え出すと、タイトル、サムネ、テイスト(語調)、オープニングの書き方等の技術的な要素や、SNSでの出し方、告知の時間等々、マーケティング&プロモーションみたいなことについても考えることが無限に出てきます。それは、「まだ書いていない人」には必要ない事だと思います。

とにかく重要なことは、自分が読みたいもの、自分が面白いと思うものを書くことです。それが世間のニーズに合っているかどうかは、出してみるまでわかりません。ただ、上述したように世界は広いので、必ずどこかにあなたと同じ想いを持っている人はいます。その人にあなたの作品が届くかどうかはちょっとわかりません。ただ、テキストはネット上にストックとして残るものなので、いつか必ず、あなたの記事を必要とする誰かのもとに届くはずと考えるのは良いマインドだと思います。特に、ノウハウ系とかではなく、メッセージ性が高いものに関しては、PV数とかを考えずに書ける時に書いておくべきだと私は考えます。

Lesson2 暫定的でもとりあえず完成させる

なかなか作品を世に出せない。そういう人にありがちなパターン2は「自分の作品はパーフェクトではないのではないか」みたいなことが気になる、というものです。Lesson1が主にテーマや中身の問題だとしたら、Lesson2はクオリティというか「練り上げ度合い」の問題です。世に出すからには、人々をあっと言わせるような質の高いものを作りたい、誰かにミスや考えの浅さを指摘されないようにしたい、そういうこともあるかも知れません。

確かに、ある程度良いものを作ろうという意識は大事です(思い切って雑なのも悪くはないです)。しかし、だからと言って一生下書きにテキストを置いていても何も起こりません。大体のケースでは、書きかけた下書きはいつかあなたのワーキングメモリーから消去され、一生日の目をみることはなくなります。たとえ、そこに磨けば光りそうな粗削りで刺激的なアイデアが含まれていたとしても、日々に忙殺されて、自分自身も興味を失ってしまうのが世の常です。

アイデアを熟成させてから出すというのは、書くことが習慣になっている人のやることです。下書きに立ち戻って毎日少しずつ論を進めるといった作業をするには、モチベーションを維持し続ける必要がありますが、明日の自分が今日と同じ意欲を持っていると思ってはいけません。思い立ったが吉日じゃないですが、やってみようと思った日に作品を完成させ、そのままwebに投下してしまうのが「まず1本」をクリアするための最良の策だと私は考えます。

筆の速さは人それぞれですが、分量的には2,000字程度、長くても4,000字ぐらいが一気に書ける量の目安になると思っています。私の場合だと、(リサーチ等の時間を除くと)1時間で書ける量が1,500~2,000字程度です。これぐらいの分量であれば、読み直すのにも5分ぐらいしかかかりませんし、小さめにすればエディタの画面内に収まるような長さなので、話があらぬ方向に行ってしまうという事もあまり起こりません。「取り敢えず完成させる」という目標のためには適した分量だと思っています。

しかし、丁寧に難しいことを議論しようと思うと、2,000字はわりと少ない文字数です。仕方ないです。細かい部分は端折りましょう。読者は幸いなことに行間をある程度補って読んでくれます。多少雑でも問題ありません。読み返して明らかに話が飛んでるなと思えば、あとから書き足しても構いませんし、また別記事でさらに深めた考えを書いたりするのもアリです。

「暫定的にこんなもんかな?」で1個話がまとまったら、明らかな誤字や意味不明な文章をサラッと直して、もう出してしまいましょう。

世の中にパーフェクトな作品など存在しません。相当漫然と暮らしていても、人間は日々成長したり、様々な経験をしていくものです。今日のあなたは昨日のあなたより何かしらアップデートされています。つまり、生きて活動している限り、作品を真の意味で完成させることは不可能だと考えてください。

経験上、自分が書いた作品を読み直して、それがパーフェクトだと思ったことは一度もありません。不思議なのですが、私の場合は、書いているときには、これは最高だと思っているのです。しかし、それは間違いだとしか言いようがありません。

しばらく時をおいて、自分が書いたものを読み返してみると、「アレッ?話が飛んでるな」、「説明が足りないな」という部分や「もっと端的に書けたな」というアラが必ず見つかるものです。中には、当時と全然考えが違っていて、なんなら間違えに見える、ということもあるでしょう。

そういうものです。

ただ、中には、「おっ、いいこと言ってるじゃん!」と思う部分がところどころ見つかるものです。それをよりよく伝えるために、もっといい方法があるんじゃないか、別のアイデアと組み合わせたほうがより深い議論ができるんじゃないか、時を経るとそういうこと思いつくようになります。いいじゃありませんか。それがきっと成長です。ただ、それは1日2日、下書きを寝かせたぐらいで出来ることではありません。

あなたが書こうかなと思っているものは、書店に並ぶような書籍ではありませんし、学術論文でもありません。個人ブログは商業や学術用テキストよりかはずっとライブ性が高いものです。パフォーマンスが良い日もあれば悪い日もあります。あなたが作ろうとしているものは、あなたのマスターピースではなく、ただの習作で良いのです。それを沢山積み上げた向こうにあなたのマスターピースがあります。美術館に行けば、代表作の横に小さいよくわからない素描みたいなものが展示してありませんか?すべての作品の創作プロセスを知っているわけではありませんが、普通は多くのテストやボツ案を経て、傑作が作られています。

闘魂noteには時折(小品)とつけられたものがあると思います。実はこれには、単に短い(1万字以下は短い。いいね?)という意味の他に、これは「絵画に例えるなら習作です」という意味を持たせています。そうなんです。これは正しいのかなあ?自分でも確信を持っていないことも私はたまに書いています。それらは、なんか思いついたからここらで一回書いておきたい、ぐらいの感覚で書かれたものになります。

それぐらいでいいのです。いや…良いか悪いかは、読者の皆さんが判断することですが。

少し付け加えるなら、タイミングを逃すと書けなくなるものがある事は意識しておくべきかも知れません。現場のリアルを描きたければ、自分が現場から遠い管理者になる前に書いてしまったほうがたぶん良いです。結局、作品は今の自分を写すものなので、成長してはじめて書けることもあるでしょうし、逆に書けなくなるものもあり得ます。

その作品が良いものになるかどうかは、また別の話ですが、今あなたが書きたいと思っているものは、たぶん今しか書けない、今だから書きたいものである可能性が高い事は覚えておいて下さい。

【どうしても納得のいくものが出来上がらない人向けの補論など】

何か伝えたい気持ちはあるのに、筆力が及ばず、結局何が言いたいかわからなくなる
、そんなこともあるでしょう。よくあります。個人的には、特に気にする必要はなく、「考えたけど、このとおりよくわからなくなった。難しい問題だ。また、考えたい。」とか書いて締めておけば問題ないんじゃないかと思いますが、誰がどう見てもどうしようもなく「ひどいもの」が出来上がった場合には、潔く公開を諦めましょう。

そうです。うまく書けなかったら出さなきゃいいや、ぐらいの感じで書き始めて大丈夫です。

多くの作文術が、アウトライン的なものを作って迷子にならないように書きましょうと言っているかも知れませんが、大体そういう予定というのは書いているうちに狂ってくるものと相場は決まっています。筆が進むに従って深まる密林・・・一体おれはなんの話をしているんだ・・・果たしておれが言いたかったことは一体何だったのか・・・よくあります!

Bestを尽くしたつもりでも作品が形にならない。Lesson2に従って、なんとか終わらせてみたものの、どうも納得いかない。そういう事もあります。これまでの話では、そうであっても世に出してみれば何か起こるかもよ?という事を言ってきました。それは、間違っていないと思っています。しかし、だからといって無理やり納得いかないものを世に出してみる必要も無かったりします。

どうしても書きあがらないテーマは、まだ自分にとっては重いということもよくあることです。私は、場合によってはそういう抽象論に踏み込んだりしてゴールが見えなくなったパートは、バッサリカットしてしまう事もあります。せっかく書いたのにと「もったいないお化け」が祟ってはきますが、作品の完成を邪魔するパートを削ることによって、逆に作品が完成することもあります。そういうのは、今後の課題として一言二言触れておけば良いのです。

大事なのは、とにかく完成させることです。途中で放り出して存在を忘れてしまうのが一番良くないことです。「うわーやっちまった!」そう思ったら、取り敢えず1日寝かせて翌朝読み返してみてください。案外よかったりするものです。その時にまだ途中だと、またあれこれ考え始めて発表できなくなってしまいます。完成品として読める段階まで、取り敢えずいったん仕上げてしまうのがコツです。

ちなみに、2000字ぐらいを一気に書いてしまうつもりであれば、最初は3時間ぐらい時間を用意しておいたほうが無難だと思います。

Lesson3 文章力に正解はない

ネットで誰かの作品を読んで、「あんな風に書いてみたい」と思う。初期的なモチベーションとしてはよくある光景です。世に作品を出すからには、流麗な文章で人々を魅了したい、人の心をグッと鷲掴みにするようなパンチのあるものを作りたい。わかります!めっちゃくちゃわかります!

これもよくある「自分なんて・・・」の一因となります。文章にうまい下手はもちろんあります。うまい人はとことんうまいです。ですが、それは果たしてどの程度重要なのか?という話が当然にあります。

文章はよく料理に例えられます(私が聞いたのは「論文は」というタイプのたとえ話でした)。

曰く、テキストの良さは、素材と調理と盛付けで決まる。

これを、映画の感想文に当てはめて考えてみましょう。

・素材:論じようとしている映画です。元の作品があまりにダメなものだと、当然それをいくらアツく論じてもあんまり人の興味を引くものにはなりません。逆に、名作を扱う場合は、素材で優劣がつくことはありません。忘れられている古典的名作とかは、結構アツい素材になります。

・調理:映画であれば、物語構造の分析、鑑賞の着眼点、作品の作られた時代の文脈と映画との関連付け、作品に紐づけて自分の体験を語るREALさや熱量、などなど、人によって千差万別なところです。映画をどう語るか、それによって面白さが全然変わってくるというのは想像しやすいところでしょう。たぶん一番大事です。

・盛付:これが表現力の問題です。内容にあった文体、小ネタのセンス、テンポの良しあし、読みやすさ、ネットメディアであれば、ヴィジュアルの使い方などもあります。ある種スタイルの問題でもあり、TPOを別にすれば、こうでなければならないという決まりはありません。ゆえに無限に考えることがあり、考え出すと悩みが深まりがちな要素です。

料理に例えると、盛付が多少ダメでも味がうまければ問題ないことにすぐ気付けると思います。今からあなたがふるまおうとしているのは、友達が家に遊びに来た時に出す家庭料理ぐらいのものだと考えれば良いです。

そして、会計とか監査とかそういう専門領域とかでは、盛付は全然必要ありません。

例えば、あなたの持っている専門書が、

 T魂だ!おれは独立開業以来15年間手作業でくそったれな会社どもを100万社ほど連結しまくって来た。おれの客にDIVAとかを買う金はない。どいつもこいつも貧乏人ぞろいだ。そもそも、システムの必要性を判断したり、使いこなせる能力を持った人材もいない。そんなことだから、おれのようなインチキ専門家に食い物にされるわけだが、その話は長くなるので今日はやめておこう。
 幸か不幸かこの本を手に取ったという事は、おまえも、何一つ武器らしい武器が与えられていない連結の現場にぶちこまれたということだろう。おめでとう。もう安心していいぞ。おれは前任者すらいないノーヒントの決算現場から、前期が間違いだらけの在外子会社5社の連結まで、すべてを偉大なビルのもたらした現代の叡智の結晶=マイクロソフト・エクセルの力により乗り切って来た。例えエクセル以外の武器が与えられなくても、おれのインストラクションを忠実に守りさえすれば、おまえも必ず連結支援の現場をサヴァイヴすることができる。

「えっ、エクセルなんて所詮ロータス1-2-3のパクリでしょ?」

 おまえが仮に、そんな原始人めいた偏見で、エクセルの力をナメているのだとしたら、それは完全に間違いだと断言できる。
 エクセルはおまえの想像をはるかに超える高機能な魔術的方眼紙だ。おまえもかつては受験予備校で、神秘的なクウィック・メソッドの力を借りながら、白紙の計算用紙と電卓だけで、イカれた連結の答練などに果敢に立ち向かってきたはずだ。
 今おまえの目の前には、なんと四則演算ができる方眼紙が広げられている。これで、連結決算が出来ないなどという奴は即座にモグリだと断定していい。マイクロソフト・エクセルは、少なくとも白紙の紙ではない。そうだ、少なくとも白紙の紙ではないのだ!仮におまえがイシルドゥアの世継アラゴルンであったとしても、もはや死者の力を借りる必要はないだろう。エクセルこそREAL・・・おまえの真の旅の仲間だ。

 Lesson1はこうだ、「おまえはエクセルと、ビル=ゲイツと、今のおまえを支えているかつての努力を信じろ」話はそこからだ。

みたいな、ちょっとどっかで読んだことがあるようなテイストの書き出しから始まっていることは、まずないと思います。まったく必要ありません。

こと盛付に関しては、よほどマズい文章で何を言っているのかサッパリわからないようなことになってなければ、基本的なことが出来ていれば何ら問題ない、というのが答えになります。どちらかというと、フレーバーの要素だと捉えるべきでしょう。

凝った文章が好きな人もいれば、素朴な文章が好きな人もいます。ベストは、作品のテーマや想定読者、どういう読者体験をして欲しいか、などによって書き分けられることだと思いますが、そういうのはPROがやることなので、一切気にする必要はありません。

よく言われる通り、中学生か高校生ぐらいが少なくとも字面がわからないことがないように書く、が一般的な正解だと思います。その水準を超えたら、あとはどういう読者層に刺さるかといった趣味判断の問題となってきます。そこに正解はありません。いずれは自分自身が心おどるような文章を書けるようになったら超ハッピー、そんぐらいに思っておいて問題ありません。

不思議なことに、人が書いたものは実際以上によく見えることがあります。今まで全然書いてなかった人が、一撃で名文を出してきて、打ちひしがれる、ということもあるものです。気にする必要はありません。大体こういうのは隣の芝は青く見えるという話であって、向こうからも同じように見えている場合もありますし、純粋になんかいいなと思ったら貪欲にパクっていけばいいだけの話です。自分の癖を打破するのは結構難しいことなので、他人の癖に学ぶのは役に立ちます。他人の書いたものが素晴らしく見えるというのは、有望な能力かも知れません。

なお、1点だけ留意点を挙げておくとすれば、推敲は必ず必要です。エディタ上で読み直す事はもちろん、一番いいのは印刷する事ですが、なかなか環境が整わないと思うので、PDFデータに直してみたり、スマホのメモアプリに落として眺めてみたり、最低でも3回ぐらいは読み直すようにしてください。文章力に不安を感じる場合は、ここが最重要になります。

【補論:果てしない文書表現の世界にようこそ】

味が普通でも、盛付がスゴければ、あっという間にインスタグラムとかでバズりそう、みたいに、作品の消費のされ方によっては、盛付も重要であることは間違いありません。そうです。テキストメディアでは、盛付がヤバい(いい意味で)だけでもスゴイ作品を作ることは可能です。主にエンタメ性を重視するような作品を書きたいのであれば、盛付は重要になります。

先ほどの架空のエクセル本の書き出しはジョークですし、明らかに邪道ですが、むやみに面白そう(人による)ではあったかと思います。そうです。有用かどうかはともかくとして、盛付次第で、内容が薄っぺらくても人に作品を読ませることは可能です。盛付にはそういう力があります。書き続ければ、多かれ少なかれ、いずれはこの問題と向き合い、取り組むことになるでしょう。

トレーニングとして、読書量が重要であることは言うまでもありません。ビジネス向けの書籍や専門書は、基本的に読みやすさと内容の正確性が重視されています。あなたが日ごろ仕事で文章を書くのだとしたら、それも同じだと思います。しかし、表現力を高めようと思った場合、一度はその範囲から出て、より多くの様々なスタイルの文章を読んでみる必要があると思います。世間には、名文と評価される作品が多数あります。まずはそういったものを読んでみましょう。

次に重要な事は、これいいなと思った書き方は、自分でも試してみる事です。いわゆる、文体模写のような作業です。書いてみると、オリジナルのようなテイストが今一つ出ないなあ、と感じることがほとんどだと思います。そうなる多くの原因は、オリジナルの文章が持つテイストを支えている要素が十分な解像度で分析できていないことにあります。

修飾語の頻度や置き場所、比喩表現の有無、会話文の使い方、倒置法や体言止めといったテクニックや一文の長さがテンポに与える影響、カタカナ語、漢語の分量、語尾のバラしかた、語彙の難易度・トンマナ、読み味に影響する要素は沢山あります。そういった数々の要素を、どの程度の割合でブレンドしていくか、最終的にはここを自分なりに決めて行くことになります。自分が文体模写したものとオリジナルを比較して、何がどう違うかを考えていくことで理解が深まるでしょう。

絵画のレッスンにも模写はありますし、楽器の上達にもコピーは欠かせません。テキストも同じです。が、あまり実行はされないようです。ちなみに、本当に実践するのであれば、ここは写経するよりも、似せて書くことから多くを学べると私は思いますが、書いている量がそもそも少ない場合には写経を薦める例もあるようです。どちらかというと、丁寧に読む力を養うためにやる、という考え方のようですね。

ネットでは昔から村上春樹の文体模写とかが人気です。実際にやってみると学べるところは大いにあると思います。しかし、小説を書くのでもなければ、それ実際どこで使うの?という話はありますし、余暇でやる作文のためにそこまでやる必要があるのかというと・・・まあ趣味の問題なのかな、とは思います。

とはいえ、日ごろからカッコいい言い回しを書き写してストックしてみたりといったことは悪くありません。少しでも、他人の文章の読み方が変わってくると思います。まあ、私もPROではありませんし、たいそうなことを言える身分ではないので、この辺にしておきましょう。

まとめ

以上、長々と書いてきましたが、要するに、細かいことを気にせずにまず書いてみれば良い、という「知ってた」結論になります。

「ブログ 始めるには」みたいな事を調べると、有益な情報を提供せよ、みたいなことがたいてい書いてあります。そうじゃない切り口での、「ブログ 始めるには」も、たまにはありますが少数派です。私は今回、そちらに加勢したいと思ってこれを書きました。

自分の持ちネタの中で、何が多くの読者にとって何が有益か、それが予め分かれば苦労はしません。何より、その考え方は、ともすれば有益な情報を提供できなければ価値がない、といった考え方にもつながる危険性があり、全面的には賛成できません。それは一体、どこの誰にとっての話なのでしょうか。ネットで広くウケるものではなくても、特定の誰かが少しハッピーになる、そんなエントリーだってあっていいはずです。

「でも少なくとも誰かの役に立つ情報ではあったほうがいいよね?」という点について、仮に一歩譲るとします。私の考えでは、人間がまったく誰の役にも立っていないという事はかなり稀な状況です。仕事の邪魔をしてくるやつは多くの人の日常生活にちょいちょい登場しますが、そういうのはいったん置いておくとしましょう。

普通に社会で生活し、何らかの方法で食い扶持を得ている人であれば、だいたいの人は身の回りの誰かにサービスを提供したり何かしているはずです。そういうサービスでやり取りされている情報の中には、書籍として出版したりというマーケットまでは見込めなくても、少なくとも身近な誰かが感謝するような言葉が含まれているはずです。

そして、ネットの向こう側で画面を眺めているのも、そうした身近な誰かみたいな人である。世の中をそんな風に考えてみれば、およそ発信する価値のない情報というものも、逆に見当たらないような気がしてきます。少なくとも、発信者自身が、自分の聞きたい言葉を誠実に伝える限りにおいて、それがまったく誰にも届かないということはむしろ考えにくいことです。

これは経験上言えることですが、どんなマイナーなブログであっても、必ず見に来る人がいます。それは単にふらっと立ち寄っただけかもしれませんが、不思議と、たまにはリアクションが返ってくるものです。自分がネットサーフィンしている場面を想像してみればわかることですが、サラッと読んで興味がなければ、取り敢えず無言でブラウザを閉じるのが普通です。しかし、実際にはなぜかネットの片隅に置かれた正体不明の記事を読んで、イイネ!とする人たちが必ずと言っていいほどいます。昨今はインプレッション数みたいなものに目を奪われがちな世相ですが、たまに現れるナゾの同好の士とコミュニケーションできるという古き良きネット社会は、完全には失われていません。

人の書いた文章は、どんな玄人であっても、どんな未熟な書き手であっても、必ずと言っていいほど人柄がにじみ出ます。それを読むことは、役に立つ、立たないの問題ではなく、久しぶりに友達に会いに行くような楽しみなのです。

ネットでのコミュニケーションというと、最近ではSNS的なものがイメージされがちです。しかし、現代のインターネットからすると、いかにも遅く、まどろっこしく感じるかもしれませんが、ブログのようなものも、長文テキストを介したコミュニケーションのひとつであることが、もう少し意識されても良いような気がします。

大げさな作品を目指すのではなく、メッセージボトルに取るに足らない怪文書を詰め込んで、海に流すような、そんなつもりで書かれた作品があっても全然いい。私はそう思います。ボトルが沢山流れ着く怪文書の浜辺で、自分にピッタリな作品を探している読者が必ずいるはずです。

誰も読まないかも知れない怪文書ぐらいなら、逆に気楽に書けそうな気がしてきませんか?そう思ったら書きましょう。今回、書くことのメリットについては特に話していませんが、多くの先人たちが言っていることでもありますし、やればすぐに体感できると思います。

望むらくは、そういうメリットみたいなところも越えて、書くこと自体が、ネットの向こう側にいる誰だか知らないあなたの楽しみにならんことを。そんな願いをこめて、この記事を広大な電子の海に流すことにします。

誠にありがたいことに、最近サポートを頂けるケースが稀にあります。メリットは特にないのですが、しいて言えばお返事は返すようにしております。