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保護者という名前がつくのは急に突きつけられると怖いこと

ついにきた。


2019年まるごとと2020年の5月まで、僕は実質、子どもさん二人を保護して扶養していたと言っていい。
よくよく冷静に振り返ってみると、僕はパパさんの住居に越して来て、健康であった時のパパさんの責務を肩代わりし、最後は僕の給料も入退院のパパさんの扶養に供していた……

結果的に、僕は三人の親族の養い手として、もがいた事になる。

パパさんの死亡届を葬儀屋さんが区役所に出しに行ってくれるまでは、僕はその事実と全く向き合ってなかった。おめでたいといえばおめでたい。

僕の中ですごくしっくりくるのが、『ああ無情』の中の起重機のジャン。自分が因果関係をどうにかひん曲げ得る崩落を目の当たりにしたら、崩れが僕の親族の子どもさんたちを潰す前に、飛び出してベストポジションで人死にを回避せねばおさまらない、後先考えないあの脊髄反射。

昨日お姉ちゃんが『僕のヒーローアカデミア』の1巻をお友達から借りてきたなかに、あの脊髄反射的飛び出しシーンが丁寧に丁寧に描かれていて、僕は思わず声をあげて笑ってしまった。無資格無筋力のうちから、主人公は「私が来た!」のナンバーワンヒーローと同じく、助けに飛び込んで、涙目ながら、ニカッと笑ってみせようとするのだ。

あれはサッカーの試合みたいなものと何か似ていて、もうひとつ類例をあげるなら、漫画版の『陰陽師』の中で、源博雅が絶妙な神気の気流の位置に立つところがあって、たぶんそれが類例。

変な話、バート・ベリンガーのファミリーコンスタレーションというものとも、においが似ている。僕は自分の親族システムのどこに入らなければならないのか、説明できないまま入ってしまったのだから。

そして今朝、緊急事態宣言の月内解除で、お姉ちゃんに登校日が降ってわいて、僕は「保護者名」に自分の名前を書くという、覚悟も納得もないまま恐ろしい思いをしているところ。

えーとたぶん、すごーく兄の多い弟だった井伊直弼が表に出ちゃった時と、状況が似てるんだと思う。

どうしようもねえ、と言って飲んだくれたりばくちに走ったりしてるのはカッコ悪いので、どうにかカッコのつくようにしちゃう、というあのやばい情動がいけないんだろうか。

ああ。

「最大値の2割」ぐらいで構わないから、ご機嫌でいたい。いろいろあって、いろいろ重なって、とてもご機嫌でいられない時の「逃げ場」であってほしい。そういう書き物を書けたら幸せです。ありがとう!