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長女がゆっくりする権利【物語・先の一打(せんのひとうち)】12

奈々瀬は二人からの「おはよう……」を受け止めて、食卓の横をとおりすぎ、トイレに入った。

こういうきれいさに仕上がるんだ……と、ぼんやり見渡す。

ほこりがたまる場所が極力すくなくなるように、ひと拭きでほこりが取り除けるようにフラットに、内装に手を入れてある。
ウォシュレットも賃貸の設備ではなく、変えてある。たぶん、大家さんと管理会社に、すり合わせをしたうえで……

変えてよかったんだ。変えればよかったんだ。そうじのしづらさを、炊事そのものの大変さを、洗濯そのものの面倒さを。

相談すれば相談に乗ってくれただろうに。質問すれば教えてくれただろうに。

延々とかぶさってのしかかってくる、お母さんがわりの雑務の数々をどうしたらいいか、ヒントがあっただろうに。

平日夕方のごはんづくりをどう前もって仕込んでおくか、聞いて驚いて、そこで終わらせていた。もっともっと芋づる式にヒントをもらえばよかったのに。お父さんは相談相手でも家事のプロじゃなかったのに。別の相談相手がこんなに近くにいたのに。

店舗オペレーションのほうが、掃除も炊事も洗濯も含んでいたのに。少ない人手で客対のウラで回す工夫が、とことん追求されてたはずなのに。相談しなかった。質問しなかった。

高橋が店舗コンサルティングの現場に入っているということは、こういうことだったのだ……と、奈々瀬が初めて「現地現物」で理解ができた瞬間だった。




「泣いとる」
四郎がぽつりと言った。
高橋は返事をしなかった。

「このコーヒー、すんなりしてうまいな」
またもや四郎がぽつりと言った。
高橋は黙ってうなずいた。

「なんとなく冷めたで、コーヒー牛乳ちょびっと作ったろっかな」
四郎が言った。
高橋がつぶやいた。「おちつけ」
「お前がいつか、言っとった。人が泣くの、おちつかないかてって」
「……言ったことあったな」
「おちつかん」四郎は絞り出すように言った。

「おちつかん……   わらっとってほしい……」

(胃の腑からしぼりだすように、という表現は、ほんとうにあるんだなあ)と、高橋はぼんやり考えた。
「泣けるのは体の外に出せるってことだ。ため込まずに出せてる状態を支えてやれるか? つらいか」
仕事では四郎は泣けていた。家族についても泣けていた。むしろフラットに泣けない高橋に対して、すんなり黙って平然と涙と感情だけをリリースするのにたけていたのは四郎のほうだった。

過積載の船が喫水線まで積み荷をおろすにはもう少し。表層の荷物ではなく暴力を伴った禁止の積み荷のほう、船倉の暗いくらいトコにあるやつ。

とうとう来た……恋した相手を支えるには、いっぱいいっぱいな自分に直面する瞬間が。


「お……おれ……が、つらい」もしかしたらお産の呼吸ってこんなんじゃないだろうか、というぐらい、変な塊がごぼっとあがってきて、思わず四郎は卓上でぎゅううっとこぶしを握りしめた。

高橋がそのこぶしにそっと触れて言った。「息を吐けるか。……吐ききれ。声がなくても安心して泣いたのとおなじぐらい吐ききれ。おちつくまでなんども。そうだ上手だ」


たぶんそれは、小さいころから入れられた折檻だった。「泣くなっ! 泣くな! 歯をくいしばれ! いつまで泣いてる!」その他多数。どれだけ激しい言葉を蹴りこまれたか殴りこまれたか、わからないほど膨大な。

「だいじょうぶだ間に合う、奈々ちゃんはゆっくり泣いててくれるから。お前が出せるだけ体の外に出せ」高橋はずっとずっと、四郎のこぶしに触れていた。

「出せば出すほど、安心して泣かせてあげられるようになる。安心して泣ければ笑える……お前が、安心ってどんなことか、うれしいってどんなことか、自分の好きなことを禁止されないってどんな感じかわかればわかるだけ、安心して泣かせてあげられて、笑えるところまで連れ出してやれる」

はあ、はあ、と、四郎は息遣いを自分の体の外に出しながら、やがてそれを、ふうううーーっという深い長い息へとつなげ、全身の硬直を解いていった。



やがて眼を真っ赤にして、奈々瀬は戻ってきた。
「何、泣いてたの」高橋がなんでもなく聞くので、四郎は飛び上がった。
そして次の瞬間、二重の意味で飛び上がった。



「トイレがきれいだったから泣いてたの」



頬を殴られて、切れた口は、一晩たってさらにしゃべりづらそうだったが、奈々瀬はけがをしていない部分だけで中途半端にしゃべる、ということを試みているらしい。活舌も発語の鮮明さも放り出して、なるべく唇をうごかさない腹話術を聞き取れるように、それは聞き取ることができた。


四郎はうろうろと、奈々瀬と高橋に視線を泳がせた。
「言ってはいけない、聞いてはいけない、察しろ」という不可能な強要が自分を縛っていたことに、直面してしまった瞬間だった。


「トイレがきれいだったか」高橋はことばそのままを言った。「うれしいよ、ありがと。奈々ちゃんになるべく居心地よく休んでもらいたくて、四郎と二人であちこち掃除した」そしてきいた。「泣いてたのは、何に。口で話す? 筆談にする?」

奈々瀬は右手をひゅるんと動かして、書くまねをした。
高橋が斜めうしろのボックスから筆記具を取って、そっと卓上をすべらせた。


トイレの内装
ウチ そうじ大変だった
ごはんも せんたくも
大変なままやってた
長女だから怒ってやってた


四郎は書かれる奈々瀬の「泣いた理由」に驚愕した。

憶測とは……

憶測とはかくも非力なのだ……

ちらりと高橋は四郎を見た。「四郎は何にびっくりしてる」

「俺、奈々瀬が泣いとったでおちつかんかったけど、こういう理由やとは全然思いつかんかった」

「人の脳みそのなかを自分の脳みそと世界観で推測するな、確認質問を入れろ」高橋は出会った五月からずっと、もう十三度か十四度目の業務テクニックを、まるで初めて四郎に話すように伝えた。「と、僕も教わった。できそう?」

「仕事ではえらい(しんどい、つらい)けどできとった。こんなにできやへん分野があるとは思わんかった」

「仕事相手なんて、恋の相手ほど重要じゃないからな。それだけ奈々ちゃんが大事で失いたくないんだってことだ」高橋は四郎の目を覗きこむように言った。「すばらしいじゃないか。初恋の相手をここまで愛せるなんて、すばらしいじゃないか」




「最大値の2割」ぐらいで構わないから、ご機嫌でいたい。いろいろあって、いろいろ重なって、とてもご機嫌でいられない時の「逃げ場」であってほしい。そういう書き物を書けたら幸せです。ありがとう!