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笑えません笑えません、の裏側ーー高橋照美の「小人閑居」(26)

私の親友には、「親友が苦痛に思っていることを笑ったら、友人関係は終わりだ」というひりひりした感覚があったそうだ。ずっと。

がまくんとかえるくんの『ふたりは ともだち』(アーノルド・ローベル 作、三木 卓 訳)所収の「すいえい」。がまくんの水着姿がぶかっこうでおもしろい、というので、へびやねずみたちが見に集まってきてしまう。そしてがまくんの姿を笑う。

そのとき、こともあろうにかえるくんも笑うのだ。
この展開が「あまりにも衝撃だった」と彼は言う。


彼には私という友人が、就職してやっとできた。ひとりきりの友人がそのまま親友で、ほかに友人というものはいない。誰かが彼を友人と思っていても、彼のほうは親しまれ感がなく、その薄い感覚に従うと、全員「知り合い」「知人」に分類せざるを得ない。

雑談だの挨拶だのを、そつなくこなす。そして苦痛がった。
挨拶は「やらざるを得ないこと」、雑談は「こなすこと」。楽しいから語るという土俵から外れているのだ。

就職したての頃、ちょっとだけ不器用ながまくんを通りこして、三木 卓の造形する「のらねこ」そのものの感じで、自分を持て余していた。かわいがられるとはどんなことかを知らなくて、「こわい!それ以上近寄るな!」というのらねこの叫びを、自分も叫びそうでこらえる。そういう状態だと「のらねこ」を読んでホッとした様子で語った。

虐待されたらそうなる。

調べていくと、「混乱型の愛着障害」についての解説と描写が、もっとも彼にはしっくりきた。それより前に見つけた「高機能自閉スペクトラム症」のチェックリスト該当は、根本原因ではなく結果としての症状化であろうと思われた。

仕事が忙しすぎ、マンパワー不足で間に合っていなかった時期、睡眠も足りず、ストレスで報告・連絡・相談が回らなくなった。その時期だけ、副次的に「高機能自閉スペクトラム症」のチェックリスト全項目にチェックがついて、我々は驚いたものだ。

ストレスレベルが上がりすぎると、スペクトラム(連続した症状の階段)も上がっていくのだ、ということを実感した。愛着の再形成に焦点をあて、業務分担を軽くしたら、全項目が非該当になった。ブラック企業において正常な判断がなくなり、自殺にまで追い詰められるプロセスの仕組みを理解した気がした。

脱線した話を戻す。

彼は「親友とは裏切らないもの」というあえかな夢をにぎりしめていた。その裏切りとは「真摯さからはずれること」であって、彼女を奪うことなんて裏切りにはあたいしない。そもそも自分が身を引くという、特定のスキーマに沿った対等ならざる振る舞いが彼にとっての順当な関係性だから。

親友からその心理を詳しく聞き取って、私は暗鬱なきもちになった。

だからこの成長小説シリーズでは、高橋が四郎のことを「笑えません笑えません……」と思いながら、必死で笑いをかみ殺すシーンが、なんどか描写される。

愛着土台(こころの安全基地)が再形成されてさえいれば、「どんな感じ方を表明したって大丈夫」ということが感覚上保証されている。愛着土台があるならば、かえるくんががまくんを笑ったって、がまくんはかえるくんとの関係性を断ち切ったりはしないのだ。悲しくなってうちに帰ったとしても。

高橋が四郎を笑ったら、愛着の形成不全に苦しむ読み手が、どれだけ衝撃を受けるだろう。どのようにしたら、その読み手と一緒に愛着の再形成を体験して行けるだろう。

それが、「笑えません笑えません……」の意味するところなのだ。


いよいよ「秋の月、風の夜」は(40)に到達します。
応援してくださって、ありがとうございます。

「最大値の2割」ぐらいで構わないから、ご機嫌でいたい。いろいろあって、いろいろ重なって、とてもご機嫌でいられない時の「逃げ場」であってほしい。そういう書き物を書けたら幸せです。ありがとう!