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ひとうちポン!【物語・先の一打(せんのひとうち)】71

未来の読者に責任がある、という話を、起き抜け一番に、四郎は高橋と共有した。高橋は、興味深そうに黙ってきいた。どうやら、自分の作業途中の裏箔の修復に関する責任話とひきくらべてきいているようでもあった。

朝のコーヒーを出してくれながら、高橋は言った。

「伝人試験の 『先の一打』 に関して、言おうか言うまいか迷ってたことがひとつあるんだ」
「え、どんなこと」
「『先の一打』に関しては、今は、正解は『家から逃げろ』だ、という点だ」
高橋は言うだけ言って、自分で入れたコーヒーを小さく口に含んだ。

「まさか!卑怯やん!」

四郎はびっくりした声を出している自分に、少々びっくりした。高橋は話をつづけた。

「向き合いをやめて、その場を立ち去ることを「卑怯だ」という概念は、誰がお前に叩き込んだ? 将来の読者に責任をもつならば、読み手の人生に過負荷をかけるような “逃げるべきではない” という洗脳を、単なる洗脳だとして、いったんゼロベースで戦略戦術を検討する自由を提示しなくては、物書きとして無責任だろう」

「……そら、お前の言う通りや」

「そのうえで、峰の先祖返りという特異な身体能力のお前は、読者がなしえない体験を体験実況するのは、そりゃそれまた自由だ」

「そらそうや。……今の俺では、親父に対するに力みあがった挙句に無理な切り込みようしか、ようせやへんけどな」

高橋は黙って小さくうなずいて、そして自分のコーヒーカップを洗うと、壁のホワイトボードの自分の今日の行動予定を少し直してから、
「行ってきます」
と奈々瀬と四郎に微笑んで、そして仕事に出て行った。

「俺も宮垣先生んとこ行かな」
四郎は奈々瀬から逃げるように身支度に去って、ドアから出る際に、
「あのな、ええと、毎日さびしい思いさして、ごめんえか」
と妙なことを奈々瀬に口走って、やはり逃げるように出かけようとした。そして、ためらいがちに奈々瀬の指をさわって、結局逃げるように出かけた。


「あーあー、幸せそうな顔してやがらあ」
四郎を見るなり、宮垣はニヤニヤ笑ってそう言った。「俺にナイショのカノジョと、一発、やりやがったな」

「えっ、いや……!」

「全然うまくセックスできなかったです、とか言うんだろうが、ぴったりカノジョにひっついた状態で、絶頂しただろう。顔にかいてあらあ」

四郎は困り顔で目をふせて、頬にべったりと右手をあてた。
「うそのつけねえ若人ってのは、かわいくてたまらねえな」
宮垣はそういうと、奥へ入っていった。

「……お邪魔します……」

仕事場にあぐらをかいて、宮垣は床を指さした。
「それでな四郎、ちょっとそこに横んなって、PC筋のゆるみを自分で触ってみてみろ」

「えっ」
「心を捧げっちまうと、捧げたあとは修羅が待ってんのよ。骨盤底がゆるんでいるだろう。ぽわあーっと、心を持っていかれている状態というのは、筋肉のゆるみに出るのよ。男が、女とヤっても、ありゃあ単なる排泄だ、っつって自分に言い聞かせるのは、身も心も捧げっちまうと、PC筋がゆるんじまって、禁欲して稽古してたときのキレが、ぜんっぜん戻らねえからだよ」


「……どう、もどすの」
愚問だ、と思いながらも四郎は聞いた。
宮垣は仕事が詰まっているというのに、性懲りもなく越乃寒梅の一升瓶をあけにかかる。

「戻らねえもんは戻らねえ。出しちまったもんは溜まるまで待つしかねえ。キレがほしいなら、振られてこいっ!」


「いや、それはあかん」
真顔でそう言って、四郎は、自分は師匠役のひとにこれほど頑固に当たっていったことがなかったな、とひそかに感動していた。
宮垣は言った。
「お前は察する能力が高いから、相手の出方に合わせていくからなあ……相手がいること自体が、そもそも大きな障壁になるんだよなあ……」


「そこはちょっと置いといて、宮垣先生、先の先てって、どんなもんやね」
我ながら話のそらしかたがひどいな、と四郎は思った。

「先の先。ふん、そうだな。実物よりモックアップのほうがわかりやすいんだよな」宮垣はそんなことをいって、ペンで自分の指を打ってみろ、といった。

ペンで自分の指を打ってみる。
こんどはまた言われたとおり、ペンで宮垣の腕を打ってみる。

「ほら、脱力した状態から、“なんの気なし”に、ポン!と、たん!と、出ているだけだろ」


「……はい」

「できてるじゃねえか。これが、先の先のモックアップだ。なんの力みもなんの構えもいらねえ」

宮垣は、あっはっはあ、と笑った。

四郎も苦笑しながら、いつか読んだ本でいうと、松本零士の『キャプテン・ハーロック』の一巻で、ハーロックが「残骸になったじゃないか」と台羽に言う場面を思い出した。残骸を回収しにいく、と言われて連れられて行った先で、「生き」ている戦闘艇とやりあわされた不意の戦闘について、台羽がハーロックに文句を言ったことに対してのハーロックの答えだ。

できていることにたいして、何か、「仕組みを通貫しない要素」が混じりこんでいるから、今この状況ではできていないだけなのだ。
ペンが木刀になるという要素か。自分の指や宮垣の腕が、立って歩く親父にかわるという要素か。両者了解の稽古が伝人奥義のためしの場になるという要素か。大きくはその三点のみだ。

「四郎は“後の先”がピューマみてぇに速ぇえからなあ、力みが残った状態で歯ぁくいしばって動いても、『間に合っちまう』んだよ。だがそれは、体力の全盛期におけるたまさかの勝利であって、やがて、『そもそも戦わねえ、そもそも相手にしねえ』というところへつながっていくためのなんの気なしのひとうちポン、てぇのとは、性質が異なるわけだわな」
「そうですね」

「先の先とは、“ただ襲う”ってえことだ。お前の内側の分類でいうと、群れてイキってるクソガキどもが、あとさき考えずに弱い女の子を集団で襲うようなもんだ。お前んなかで必死に“ダメ、絶対。”がばっちりついちまってるアホガキの所業がすんなり出ることを奥義という。正義とか、正当性とか、そんなもんは、奥義にはみじんもない」

「ああー」
四郎は両手で顔を覆った。「そんな情けない奥義なら、いらん……」

「武芸なんて、情けねえもんさ……」

宮垣はごちて、とぷとぷと「越乃寒梅」を丼につぎ足し、黙って口をつけると、のどぼとけをゆっくりと動かして飲み干していった。
四郎は、ただ、その動くのどぼとけを、ぼんやりとみていた。

「最大値の2割」ぐらいで構わないから、ご機嫌でいたい。いろいろあって、いろいろ重なって、とてもご機嫌でいられない時の「逃げ場」であってほしい。そういう書き物を書けたら幸せです。ありがとう!