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朝。【物語・先の一打(せんのひとうち)】11

「起きてる?」

こっそりとした声に、四郎は無言で起き上がり、部屋を出た。食卓に高橋が座っていて、四郎は手洗いから戻ってテーブルに着いた。

鳥のさえずりがまぶしすぎる。
空が。雲が。その広がりが。

世界が、自分を遠く離れてうつくしい。


つかれた……。


「寝れとらん」

「そうだったか」高橋はエスプレッソのカップを四郎の前において、とぽとぽと淹れたてのコーヒーを注いだ。「僕、布団引いたままにしてある。少しそっちで寝たらどう」

「あとで寝る」

「奈々ちゃんと、一日ゆっくりするといい。二、三日ゆっくりしないと、平気でおしゃべりできなさそうじゃん?」

二、三日。けがの手当てにたけているわけではないのに、この男の見積もり感覚は、なぜだか案外、的を射ている。四郎は「二、三日や。たしかに」とつぶやいた。

「高橋、なんとなーくそばにおってくれるか。俺、二人やと緊張生んでまいそうや。男の子ならこういうとき、一人にしてくれ、てっていう子もおるかもしれんが、奈々瀬は、誰かいっしょにおったほうが、なんとなくさびしないやろ。お前には、なんとなく、元気そうな、大丈夫そうなとこ、見せとりたいみたいやし」

なんとなく、を何度もくりかえす四郎の、疲れ切ったようす。

「呼べばすぐわかるような隣の部屋。みたいな感じだろ?」

「そう」

「大丈夫そうしとくよ。仕事を広げてるが、なんでもいつでも、声かけろ」

「ありがと」四郎はやっと、コーヒーを一口飲んだ。



昨晩、四郎は悪夢をみていた。
ご先祖さまたちがひいひい笑いながら、ハダシでこけつまろびつ走っていく着物のひとを追いかけていた。足をすくって転ばせて、また起き上がって逃げはじめるまでひゃっひゃっと狂気じみた歓声をあげながら待っていて、逃げさせて、追いついて、まるで小鹿の足を折るように首をへし折った。
そうして、あんなに狂った声をあげていたのに、みんな正気だったのだ……と四郎が愕然としたことには、頸動脈を刃物で切る手際が、非常によかった。勢いよく鮮血が、しかし静脈血なのであろう、黒ずみのある血がほとばしって、ご先祖さまたちがひゃあっと首をつっこむようにしてガボガボ飲んでいた。
のどが荒れてしまうほどいがらっぽい、岐阜弁で「えさらこい」、鼻に入ってむせこむ勢いの、息のできない分量の血が、口に流れ込んだ。

目が覚めて。
時計が三時三十四分で。
案の定、べっとりとした寝汗にまじって、下着をよごしていて。
たんすからそーっと新しい下着を出して。
そっと手洗いに立ち。
洗面所で汚れ物を洗い。
洗濯機に入れ。
台所で水を一口飲み。
震える息をおちつかせ。
両手で顔を覆い。
深く、深く息をついて。

しばらく、奈々瀬と同じ部屋には戻らずに、おちつこうとしていた……


「十八になるまでは、奈々瀬、ぶじにおいとけるやろうか」
「大丈夫感は、あるんだろ」高橋は自分のエスプレッソカップにそっと口をつけた。
「ある。今まんだ、ご先祖さまの ”エサ” やない」
「じゃあ、思う存分、一緒にいてあげるといい。ご先祖さまの数がゼロになるころには、奈々ちゃんは十八歳すぎてるかもしれない。二人がお互いに不愉快じゃないやりかたで、一緒に楽しい時間を重ねてごらんよ。完璧に大丈夫になるまで、待とうとしては、たぶん、いけない」

高橋は、まるで自分に言い聞かせるように、そんなふうに言った。

なおも高橋が口をひらこうとしたとき。


奈々瀬が部屋から出て来た。「おはよう」

「おはよう……」

ふたりは、なんでもない日のように、そう返した。



「最大値の2割」ぐらいで構わないから、ご機嫌でいたい。いろいろあって、いろいろ重なって、とてもご機嫌でいられない時の「逃げ場」であってほしい。そういう書き物を書けたら幸せです。ありがとう!