怪我して走れないから理想のランニングフォームを過去の哲学を用いて検討_ニーチェ編


はじめに

以前に引き続き、
かなり強引な感じで哲学とランニングフォームを
がっちゃんこしながら記事にしてます。
次は皆さまお待ちかねのニーチェとなります。
「神は死んだ」でおなじみですが
ニーチェはランニングフォームも殺すのか!?
私の哲学への理解の浅さも合わせて必見です。

ニーチェの哲学概要

ニーチェは「人間にとっての生きる」とは
的なところを考えた哲学者だと把握しております。
「人間にとっての生きる」が
「宗教(西洋では主にキリスト教)の教えに従うこと」
だった時代に「宗教は弱者の言い訳」的なところを
公然と言い放ちました。
そもそもキリスト教の元となったユダヤ教は
迫害されていたユダヤ人が極限状態の中
生きるために見出した宗教であると考えました。
その中で
「神様に選ばれた人が幸せになる」
→「神様に選ばれるのは欲がない人」
→「欲がない人は権力やお金は持たないはず」
→「権力やお金を持つ人は悪だ」

的な考えが一般的になっているという
感じに考えました。
※時代的にキリスト教のカトリックと
プロテスタントの争いが酷い惨状を
生み出したこともあります。

「権力やお金」を持っていない人は
持っている人に対して嫉妬し、
「権力やお金を持っている人は悪だ」と
決めつける傾向がある。

それは果たして正しいことなのかという
疑問をニーチェは突きつけました。

ニーチェは「人間にとっての生きる」とは
何か得にくいものを得るために
頑張ることではないかという疑問を提示したと
私は考えております。
資本主義の世界ではその何か得にくいものが
「権力やお金」といったものであると考えます。
つまりニーチェは強欲になれって言っているのではなく
とりあえず何か頑張ってみれば?的な感じのことを
主張したかったのだと思います。

ニーチェの主張を理想のランニングフォームを得るための思考に応用すると?

ランナーである僕自身は
かっこいいフォームはあきらめて
とりあえず自分が速く走れるフォームが
自分にとっての理想のフォームだと考えてしまいます。
ただ、確かにニーチェの言う通り、
大迫選手などの実業団選手の走りを見ると
やはりかっこいいし羨ましいと思います。
それに対し、ニーチェは
ただ羨ましいと思ってるだけでは
駄目だと主張してきます。
「美しいランニングフォームを手に入れるために
少しでも足掻いて希求し続ける」
ことが
理想のランニング人生の一助になるのではないか、
的な示唆がニーチェの考えにはあります。

おわりに

まあ、ガチレスすると
実業団選手みたいに
美しいフォームは難しいですけどね 笑
とはいえ、ランニングでいい結果を出す為に
頑張ろうと思う部分は
否定してはいけないし
追い求めていいと考えております。
とりあえず、怪我も落ち着いてきたので
リハビリ頑張ります。

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