見出し画像

言葉は無力、基本的には。

それでも尽くしちゃうよね、言葉。笑

今日の記事、書き終えてみたらすごく抽象的な話になってしまったのですが。
最近考えていることがあります。すごく博識で偉人賢人の言葉や文章をたくさん知っているのにも関わらず、曇った世界を見ている人がいるのはなぜだろう、と。

世界との付き合い方をや世界の見え方を記した文章をたくさん読んでいるのにも関わらず、ぜんぜん上手に世界と付き合えていない人がいるのはなぜだろう、と。

言葉は人を救わないのかな、なんて思ったりもしました。
宗教に入ってもなぜか救われない人がたくさんいるのと同じで。
救われたり、救われなかったりする。

***

世界を言葉で表現するって、どういうことだと思いますか。
わたしはね、これから言葉を尽くしますよ。笑

あのね、それは、ビーズで海を表現することと似ていると思うんです。

ビーズ。あの、ちっちゃい、コロコロした、かわいくてきれいなやつ。笑
あれを敷き詰めて、海を表現することと似ているんです。世界中のビーズをかき集めて、海を表現する。それが「言葉を尽くして世界を表現すること」。
でも、ただ敷き詰められたビーズを見て、「海だ」って直観する人はまずいないです。ほとんどいない。だってビーズだから。ただビーズが敷き詰められているだけだから。

でも、あるとき突然、それが海に見えることがある。
ある一つのビーズがきっかけかもしれないし、ビーズの連なりを眺めていてひらめくのかもしれない。
海に見えた瞬間、その海の美しさがわかる。あ、あのビーズはサンゴ礁の豊かさを表していたんだ、あのビーズは打ち寄せる波の飛沫のきらめきを表していたんだ、あのビーズは……って。

海が見える、その瞬間。いろんなものが全部腑に落ちる。

***

偉人賢人の言葉をたくさん知っているのに、世界が曇って見えている人は、きっとまだ、ビーズがビーズに見えている状態なんだと思う。
一生ビーズのままの人もいる。切ないけれども。

でもね、海を見たかったら、海をわかりたかったら、いろんな距離からそれを見て、観察して、思いを馳せるしかないんだと思う。たまにぶっとんだ体験を経て気付く人もいるんですが。笑

言葉が言葉のままであるとき、知識が知識のままであるとき。
たぶん人は、何にも知らない状態とあまり変わらないんだと思う。

わたしはね、ぜんぜん博識じゃないんですけど。
(思考と味わいと戯れの時間が長くて、博識になるにはちょっと人生の時間が足りない。笑)
でも、見えてる。見えてるっていうと変ですが、比較的若いうちに、ビーズが海に見えた人だと思う。一つ一つのビーズの美しさと、海全体の美しさが、両方見えた人だと思う。まだきちんと味わえていないあっち側も、海の一部だってことを知ってる。まあ、味わいきれないな。すっごく大きいから。

だから、いま全力で味わっているところ。海の自体の美しさを。それから、ひとつひとつのビーズを解釈したりして、楽しんでいるところ。
そしてわたし自身も全力で、海を思い浮かべながらビーズを敷き詰めているところ。

***

なんか変態みたいな話になっちゃったんですけど。笑

でも、これを踏まえてぜひ、偉人の言葉に触れるときは、できるだけ本人が意図したまとまりで読んでほしいと思う。論文一本分だったり、随想一つ分だったり、本一冊だったり。
「10分でわかる〇〇」だけで終わらせないでほしい。
せっかく偉人賢人が丹精込めて敷き詰めた無数のビーズを、どこかの誰かが3つくらい取り出して見せてるようなものだから。

あとは、誰の表現で海が見えるかは相性もあるので、いろんな人の言葉を読むのもいいと思う。別に、ビーズを集めるの自体が目的ならいいですけどね。でも海見えたら楽しいよ、絶対に。

海、見えたら楽しいし、なにより、世界って優しいんだなってわかる。


***


あと、個人的にはビーズの海に飛び込んで、漂ったりまどろんだりおぼれたりするのもまた、たまらなく楽しいです。笑


最後まで読んで下さって、本当にありがとうございました! 意識低めなので、いただいたサポートは書籍代などにはならず、おいしいケーキや紅茶に消えると思います……(*´ω`*)♡